2008年9月7日日曜日

「〇〇づくり」は雰囲気づくり

「まちづくり」、「ものづくり」といった類の言葉が私は大嫌いである。こういうセンスの悪い言葉を好んで使うのはほぼまちがいなく役所であり、役所が音頭をとって何かやりましょう、といって成功した「〇〇づくり」なんて聞いたことがない。所詮は「税金使ってちゃんと仕事やってますよ」という役人のアピールであり、役所のやることにケチを付けにくくする雰囲気づくりに過ぎない。

当然役所内部でも、〇〇づくりに反論する意見はまずない。反対したら奇人変人と思われてしまう。こういう言葉を考える人間は、ひらがなで書けばだれでも親しめる言葉になるとでも思ったのであろうが、現役のお役人としては、この類の言葉から受けるイメージは、「全体主義」と「抑圧」である。

2008年9月4日木曜日

占星術行政

ある事業が終わっても、それが成功であったか失敗であったか、総括しなければ、全く無意味である。事業そのものに、成功の基準、失敗の基準を設定しなくてはならない。

役所の事業は、だいたいどれだけ成果があったか、と言う見地からしか検証されない。失敗の基準が曖昧なのである。当たり外れが曖昧なのは、星占いである。

夢見るオッサンどもの現実離れした、たわ言。

それが現在の日本の行政である。

2008年9月3日水曜日

医師不足はなぜ起きたのか

今週の週刊東洋経済の特集は「不確実性」経済学入門だった。特集の前半部分の記事は興味深かったが、後半部分はこれが不確実性と何の関係が?と首をひねるようなものがあった。

後半の記事の中には、「不確実性を医師にだけ負わせた代償」が医師不足に繋がった、との記載がある。医療事故でマスコミが世論を煽り、医師バッシングを行い、その結果医師が不足したのだから、国民の自業自得だ、という論旨だ。

馬鹿も休み休み言え。自業自得なのは、医者の方である。もともと私は、日本社会で独特の文化を有し、かつ最も閉鎖的な「部」は、「野球部」と「医学部」であると思っているが、今まで、医者とは、特権階級的身分で安楽を貪り、患者に対してはロクに病状の説明もせず、病院経営にはまじめに取り組まず、政治権力を使って診療報酬の積み上げを行い、医学部の定員を制限することで身内だけのパラダイスを作ってきた、社会学的にみれば、産学官連携のただの業界団体である。

だから、東洋経済の記事の論旨は完全に逆である。ただの「医療技術者」が鼻持ちならない態度で人々に接してきたツケが、医療事故に対する訴訟として、己に降りかかってきたのである。

解決方法は、ひとつしかない。過剰に医師を供給することである。なにも医学部を卒業したからって、かならず医者にならなければならない理由は全くない。医学部の定員を各大学で自由に設定し、結果として医者が過剰になれば、その職に適応しないものは、淘汰されるようにすればいい。良識ある一般市民の義務として、連中をキチンと競争の荒波の中に放り込んでやる必要があるのだ。医学部の定員を国が低めに制限しているため、医学部にさえ合格さえすれば(国家試験もあるが)、馬鹿でもアホでも死ぬまで医者である、という馬鹿げた仕組みは即刻やめるべきだ。

たかが「医療技術者」不足で、何を悩んでいるのであろうか?ジャップとは不可思議な人種である。

2008年8月7日木曜日

労働者一人当たりの年収

日本の雇用者報酬は2007年度で、およそ264兆円
日本の労働力人口は、平成18年で6600万人
単純に264兆円を6600万人で割ると、一人当たりの年収は400万円。
この数字が高いか低いかは微妙なところである。

今日は疲れたので続きはまた後日。

2008年8月6日水曜日

市場経済批判と士農工商

新聞や雑誌を見ていると、「行過ぎた市場原理主義」という表現を良く見かける。ホリエモンは金儲け第一主義を嫌われたし、人気の藤原某の「〇〇の品格」は市場経済をこき下ろしている。これは結果の平等を求める人間の原始的なメンタリティーとして説明可能なのであろうが、むしろ、日本人の場合、商人を最下級とみなす江戸時代の士農工商メンタリティーがまだ消滅しきっていない、ということではないのか。本やテレビや周囲の人間を観察しているとわかるのだが、たとえ知能や社会的身分が高くても、当たり前の感覚が欠如している連中に限って、やれ武士だ、武士道だ、と言う。あるいは言葉に出さないまでも、公に無私の心で奉仕することが世のため人のためであるだと思い込んでいる。

市場経済に基づく社会とはそのような考えを必要としない。そこでは、まず第一に、経済的利益のみが幸福のすべてでもない、という考えがあり、それ故に金儲けしたい奴は自由勝手にやればよいという自分は自分、他人は他人という考えに基づいている。おもちゃをたくさん持っている友人をひがむのというのは小学生でもしない。

士農工商メンタリティーとは結局、他人の人生を自分の色眼鏡で見ることだ。そういう国民がここまで経済的に発展したのは不思議ではあるが、所詮は武士の商法であった、と言われる時代が来るのであろう。

2008年7月30日水曜日

PR下手

清沢洌「暗黒日記」(ちくま学芸文庫)の昭和18年12月6日に、
日本が宣伝下手というのが日本人がアドミットする唯一の弱みである。他はすべて日本人が優れていると思っているのに。我等から見れば日本人ほど自家宣伝する国民は他にない。
という文章があった。我が県は、わが町は、我が地方は、PRが下手だから・・・という話は、実は公務員になってイヤになるほど聞いてきた。実際は、日本の田舎ほどPR好きなところは他にはないのに・・・
日本の地方に住む人々は、地方には優れたものがたくさんあるのにPR下手だから世間から評価されていない、という自己欺瞞を堂々と唱えている。無理な背伸びはしないで、身の丈にあった工夫を積み重ねていけばいいのに、と思うのだが、一般には、もともと優れているのだから、メディアに大きく取り上げられれば、すべてうまくいく、と考えるらしい。もともと大したものはないのだから・・・という冷静な意見は、ムラ的感情論によって封殺される。
村おこし、町おこしは、「ここには何も優れたものはない」という前提から始まらなければならないのえあろう。もし、その前提を論破できるに足る十分な資源があれば、その場合はそれを生かす道を考えていけばいいだけである。最初から、やれ蛍だ、やれ伝統芸能だ、特産の野菜だ、と議論する前から議論の範囲を狭めているから、ロクなアイディアがでないし、何をやってもうまくいかないのだ。

2008年7月27日日曜日

「公貧社会を読み解く」

2008年7月27日の朝日新聞に「公貧社会を読み解く」というタイトルで記事が載っていた。論旨を簡単にまとめるこうなる。

アフリカ諸国が経済発展できないのは、経済基盤を整備するという「公」の果たすべき役割が貧弱すぎるためである。日本でも、同じように公の貧弱さが、格差社会や老後・雇用の不安をもたらしている。

前半は全く正しい。しかし後半は、全くでたらめである。まず、格差を是正したいのなら、その方法は規制や課税ではなく、経済成長が必要不可欠だ。「上げ潮はすべてのボートを引き上げる」というわけだ。そしてそのためには、無意味な規制を取り払って、企業の新規参入を促し、競争を促進する必要がある。次に、老後に不安を抱くのは誰しも同じ事で、かといって、これ以上年金を増やすことはできない。それとも、老人に何不自由なく暮らせるほど十分な年金を与えよ、というのか?若い連中から、彼らが必死になって稼いだ金を毟り取って、日本を現在の苦境へ追い込んだ張本人どもに、遊んで寝て暮らすために十分な年金を与えよ、というのか?馬鹿げた発言はいい加減にして欲しい。最後に雇用である。派遣労働者や最低賃金を規制すれば、日本人労働者ではなく外国人労働者、あるいは日本国内ではなく海外への企業の移転となることは目に見えている。朝日新聞は先手を打って、今度は「名目上研修なのに、実質日本に働きにくる外国人労働者を守れキャンペーン」を張るようだが、今後おそらく外国人労働者が増えていくのは、日本のメディアが「派遣労働者を守れキャンペーン」を行った結果だということをどの程度認識しているのであろうか。っていうよりこの国メディアはどれだけ国民に有害無意味な影響を与えれば気が済むのであろうか?

我々の国は、アフリカに蠢いている国家の体を成していない国々とは異なる。すでに基本的な法体系は整備され、インフラも十分整っている。大きな経済成長も成し遂げた(過去の話だが)。したがって、行うべきは国の市場への過剰な介入の排除である。規制緩和と自由化は必ず大きな痛みを伴い、そしてたぶん10年や20年は続くであろう。しかし、最終的な成功を手にしたいのならば、(私は大嫌いなのだが、新聞が大好きな表現を使うと)「未来の子どもたちのために」敢えて今の我々がその痛みを引き受けるべきである。

先日朝日新聞の経済気象台というコーナーに、「市場経済は社会に貢献する必要がある」という旨の記載があった。市場経済は社会に貢献するのではなく、個々の効用に貢献するのである。社会に貢献する市場経済とは、藤原某のいう武士道経済学のことか?朝日の経済部記者のpolitical economyに対する認識とはこの程度のものか、と唖然とした。

地球温暖化

私は、欧米の科学者の書いた「やさしい科学解説書」みたいな本が好きなので、わりと読んでいる。面白いのは、本筋から離れて、結構地球温暖化についてコメントする学者が結構多いことだ。はっきりと「地球温暖化はウソッパチ」と書く者、「二酸化炭素濃度の上昇は、気温を上昇させるかもしれないし、下降させるかもしれない」と書く者、とイロイロである。しかし、残念ながら、物理学者や化学者の書いた「やさしい科学解説書」で、地球温暖化をはっきりと肯定する意見は見たことがない。

一般の人々の中には、地球温暖化がウソッパチであると感じている人々はそれなりにいるはずなのに、国も自治体も企業も、みな組織の見解としては、一様に「地球温暖化防止」である。大まかに集約した人々の意見はいくつかにわかれるのに、社会の主要な組織の意見は完全にひとつでしかない。「地球温暖化防止に反対するキャンペーン」を展開する自治体も企業も、おそらくは世界中に、ひとつも存在しない、というのはちょと考えてみれば、実に気味の悪いことだ。

これは、典型的な翼賛体制であり、典型的なダブルスタンダードである。100年後だか、200年後だか知らないが、地球温暖化理論が破綻したあと、「俺も薄々そう思っていたんだよな・・・」では遅い。どれだけたくさんの資源が無駄に使われると思っているのか。日本人は第2次大戦後にも同じようなことを言ってきた。今度は世界レベルでその愚考を繰り返すつもりなのか?

2008年7月23日水曜日

ソフトに弱い国

学生時代第2次大戦のマニアだったので、結構その手の本を読んだ。大まかに言うと、日本は軍事におけるソフト面が非常に弱かった(ハードも大したことなかったが、それでもソフトの遅れよりはましであった)という印象だ。翻って現在の行政を考えてみると、道路づくりは得意だが、それをどのように生かすとか、あるいはどういうコンセプトで作るとか、そういう部分はからっきし駄目である。我々日本人の宿命なのか、それとも進歩の途中なのか、いずれにせよ、ソフトの弱い国は将来沈没していくしかないであろう。

2008年7月22日火曜日

「社会的共通資本」

宇沢弘文著「社会的共通資本」(岩波文庫)を読んだ。近所の本屋で売れ残っていたのを買ってきたのだが、内容がよくわからない。
生産、流通、消費の過程で制約的となるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本の二つに分類される。社会的共通資本は、私的資本とは異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する。・・・社会的共通資本は土地、大気、土壌、森林、河川、海洋などの自然環境だけではなく道路、上水道、公共的交通機関、電力、通信施設などの社会的インストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などのいわゆる制度資本をも含む。・・・社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなくてはならない。
感想1 資本とは、金融資本、物的資本、人的資本ぐらいかと思っていたけど、それ以外にも色々あるのね。あんまり聞かないけど・・・

感想2 行政も資本なんだ。ふぅん。

感想3 もし、社会的共通資本の管理を委ねる機構を政府とは別につくったとしても、政府の監視監督を受ける以上、実際には政府の一部門になりますよ。つまり、「社会的共通資本」が描く理想の社会とは、個人の自由よりも社会のインフラや、環境、農業への統制、保護を優先し、個人の自由はそれらを邪魔しない場合において認められる事実上の社会主義社会ということなのか・・・

もっと理論的な内容を期待していたのだが、ワリと感情論が前面に出てくる内容であった。人間が人間らしく、という理想はわからないでもないが、それはすべての人が、何不自由ない生活を送れるようになってから実現されるものであって、人類がそのようなことを言うのは1000年早い。

2008年7月21日月曜日

野菜を売るには?

妻の職場では、毎年地元のお祭りで「環境とお肌に優しい手作り石鹸」なるものを売っている。祭りで売るにはどうかと思うし、何やらいかがわしい感じがするが、今年は新入社員に地元の農家出身の若者がいるので、野菜を安く仕入れて、石鹸と一緒に売りつけようと算段しているようだ。ところがこの企画の責任者は結構用心深い性格で、妻の話によると「お前の旦那は公務員なんだから、野菜を売るのに許可が必要かどうか、ちょっと聞いて来い」と指示したとのこと。

というわけで、お答えします。ズバリ専門外なのでわかりません。ただ、別に加工したり調理したりするのではないのだから、許可は必要ないはず・・・と、せっかくのご質問なのに、そっけない答えではさびしいので、ネットで調べた。どうもやはり出店程度のところで野菜を売るのに許可は必要ないようだ

実は妻からこの話を聞いたとき、すこしだけゾッとした。一般の人々は、たかだか野菜を売るにも許可が必要なのかも、と本気で考えている。野菜を売るのにいちいち役所の許可が必要とは、いったいどういう社会なのであろうか?マスコミが煽り、役所がくだらないことで社会を規制するから、人々の持って生まれた当たり前の常識感覚が失われている。

一番危険なのは、何でもかんでも規制する政府ではなく、それを当たり前のことと考える市民の意識である。我々の歩む道は全体主義へと続いていくのであろうか?

2008年7月20日日曜日

観光産業

国の観光立国推進にあわせて、あちこちの自治体での観光業の推進が図られている。なぜ観光かというと、経済波及効果が高いから、というのがその理由だが、いまどき経済波及効果などという怪しげな理屈を語っているのは観光を語る役所だけである。あちこちの自治体のHPを見ると、観光→波及効果が高い→域内自給率が高まる→地域が潤う、という論法のようだ。だが、私は公務員だし、私の近所に住んでいる人々も、工場で働くオジサンだったり、全国的な企業の地元支店で働くサラリーマンであったりして、観光が盛んになったからといって懐の潤うものは一人もいない。

いいかげんこういうくだらない仕事はやめて欲しいものである。昔、ある観光関係の会議で、某自治体職員が「観光客がたくさん来たからといって、誰の懐が潤うのですか?」と至極真っ当な質問をしたが、全員から黙殺された。観光客がたくさん来て儲かるのは、地元のボス的存在の方々だけで、地方都市の勤労者の大部分はサラリーマンなので関係があろうはずがない。役人とは人様の税金を使ってくだらない事をやりたい放題だな。連中の脳髄は正常なのであろうか?

そもそも、経済がどのように発展していくかなど、だれにも予測できないものである。昔鄧小平が、中国経済がこのような形で発展していくことを、共産党幹部の誰一人として予測していなかった、という意味の発言をしたが、まさにそのとおりである。仮に将来地域活性化で成功するとしても(その確率はほぼゼロだが)、現時点でどのように成功するかは誰にも予見できないのである。役所の青写真のとおり経済が動くと思うこと自体、勘違いも甚だしい。多くの職員は、こういう取り組みが失敗することはウスウス感じているが、誰も声をあげないし、そもそもそのような声を生かす仕組みがないのが、今の地方自治体の最大の欠点のひとつである。

2008年7月15日火曜日

戒石銘

福島県二本松市には「戒石銘」なるものがある。江戸時代のお侍の言葉が彫られた石だ。福島県内で勤務する公務員は、研修や職員が不祥事を起こすたびに、この「戒石銘」なるものの話を聞かされる。
爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺

二本松市のホームページでは、「お前がお上から頂く給料は、人民の汗と脂の結晶である。下々の人民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできない」という訳が掲載されている。なんとなく眺めているといろいろと疑問がわいてくる。

  • 「下民易虐」に「かみんはしいたげやすき」とカナをふっているが、江戸時代のお侍が農民を見下した雰囲気を出すならば、「かみん」ではなく「げみん」と読み下すべきであろう。まあ、これについてはどっちでも間違いではないのだが・・・
  • 農民を下民と見くだし、あげくのはてに「虐げ易い」といっている文章を職員の研修教材にする、地方自治体のお偉方の感覚は、いったいどうなっているのであろうか?自分たちを「武士」だとでも思っているのであろうか?残念ながらあなたがたは、ただの小汚いオッサンです。
  • 訳で「神をあざむくことはできない」となっているが、天=神ではない。天は、人間では知覚できない世の理といった意味があるが、基本的にはこれは古代東洋の知識人の思想である。一方で、神とは創造主、あるいは不可思議な力を持つものを指し、身分にかかわりなく信仰の対象となるものである。

ざっとみて3点の疑問が出てくるのだが、この程度のこともわからないのが今の公務員なのである。今後役所の地盤沈下はますます進むであろう。

2008年7月14日月曜日

過当競争って何だ?

私はただの公務員だし、学生時代みっちりと経済学を勉強したわけではないので、よくわからないのだが・・・先日ようやくジョン・マクミラン「市場を創る」を読み終えて、ひとつ疑問が残った。この本は現代の経済学上の諸問題を網羅的に取り上げているのだが、「過当競争」という言葉はどこにも出てこない。行き過ぎた競争とは、結構問題になると思うのだが・・・変に思ってwiki日本語版で検索してみたが、そのものズバリの項目はなかった。次にwiki英語版でexcessive competitionで検索してみたのだが、やはりそのものズバリの項目は引っかからなかった。

「過当競争」って経済学の用語ではないのか?

2008年7月10日木曜日

明石砂浜陥没事件

今日7月10日、明石市の砂浜が陥没して4歳の女児が生き埋めになった事件について、国交省職員ら4名が業務上過失致死罪に問われていたのだが、大阪高裁は、予見可能であったとして地裁の無罪判決を破棄した

やり過ぎである。遺族に慰謝料をきちんと払っているのに、なぜ刑法上の責任を問われるのか全く納得がいかない。最近は遺族の感情ばかりを考慮した判決が多過ぎるし、刑法は遺族の復讐のためにあるわけではない。国でも地方自治体でも市民生活の安全を100%保障することなど絶対に不可能だ、というか「事後的には予見可能と判断されるが、実際には防ぎきれなかった」なんていう事故なんか、今後いくらでも起きるであろう。その責任者をいちいち業務上過失致死罪に問うつもりなのか?

だとすれば、役所としても安全マージンを可能な限り大きく取るしかない。少しでも危険な場所へは立ち入り禁止、少しでも危険が発生しそうなイベントは一切行わない、少しでも危険な行為に及ぼうとする者には事前に注意する・・・見事に管理社会のでき上がりである。一握りの遺族の私的復讐心への配慮のために、我々は事実上自由を捨てることになる。

ブルース・シュナイアー「セキュリティはなぜやぶられたのか」(日経BP)のP.412をパクると次のとおりになる。
絶対的なセキュリティをを与えてくれる聖杯があると考えるのは愚かと言わざるをえない。そんなことを考えると、進歩はとまり、自由は失われる。絶対的なセキュリティを求めると他のすべてを犠牲にしなくてはならず、ろくでもないトレードオフをがまんすることになる。人生にリスクはつきものであり、ときおりの事故は自由の代償なのだ。(注:太字部分を書き換えた)

たとえ私自身が不慮の事故で悲惨な死を遂げることになったとしても、私は自由の世界に生きていたい。

2008年7月9日水曜日

食育とは何か?

最近役所の広報誌には「食育」という言葉が良く出てくる。子どものうちから、正しい食生活を身につけさせようという、例によって役所主導の理解不能な運動である。はっきり言って迷惑である。このような馬鹿げたことに役所の人員と税金をつぎ込むのは無駄としか言いようがない。

私の通っていた公立小学校では給食に納豆がでた。私自身は特に納豆が嫌いというわけではなかったのだが、大阪から転校してきたある女の子は納豆がどうしても食べられなかった。困ったことに当時の担任は給食は残さずに食べさせるという教育方針であったため、納豆を食べることのできないその子は、昼休みの間ずっと席についたまま納豆をぼんやりと眺めていた。これは当時PTAでも問題になったと聞いたのだが、結局その女の子は給食の納豆が原因で市内の私立小学校へ転校してしまった。

だから、私の意見は、役所は食育みたいに馬鹿なことには金輪際手をだすな、ということである。他人の嗜好を無視してその土地の伝統食、あるいは日本の伝統食が批判の余地のない絶対善であるかのように主張する輩には心底虫酸が走る。何を食べるか何を食べないかは、その家その家で異なるものであり、また赤の他人が口をはさむ問題でもない。わざわざ役所が介入してきて、いったい「食育」と称して何を教育するつもりなのか?役所が低レベルの市民活動家が言うようなこと主張しているのを心から危惧する。

地獄への道は善意で舗装されている。大阪から来た女の子にとって担任の善意に基づく教育は、地獄への道であったと思う。

2008年7月8日火曜日

「自治体経営革命」

ブログでけなすための本は定価を支払うのがもったいないのでブックオフで買うようにしている。というわけで今日はブックオフで1,000円(高い!)で入手した「自治体経営革命」(メタモル出版)について書く。まず最初の感想として、読んでいてこれだけ疑問が沸き起こる本も珍しいと思う。疑問点は以下のとおり。

・「選挙で市町村長と議員に委任するとはいえ、基本は住民の決定です」?
違う。現代行政の基本は選挙で選ばれた市町村長と議員と役所の決定である。基本が住民の決定というのは古代ギリシャの話である。なぜ市町村長や議員が基本かというと、「フェデラリスト」第63篇をパクって言うと、首長と役所と議会を腐敗させるよりも、住民そのものを腐敗させる方がはるかにやさしいから、となる。

・「まちづくりの主人公は住民」?
そんなことになれば、地域の顔役や市民活動家のような声のでかい連中ばかりが得をすることになる。NPOの活動支援?彼らは人様の税金にたかっているだけだ。自分で資力のある者を説得して資金を集める、という努力は一切しないし、なおかつ困ったことに自分たちは世のため人のために活動しているのだから補助金をもらって当然の存在と思っている。馬鹿げた事態をさらに推進するつもりなのか?だいたい私は「まちづくり」「ものづくり」という言葉が大嫌いだ。人様の税金使って成功の見込みのない事業をやっています、という雰囲気がありありと出ている。

・「自治基本条例は自治体の憲法」?
自治体の長期総合計画の上位に自治基本条例が位置するというのはわかるが、他の条例の上位に位置するとはどういうことか?法令上そういう定めがあるのか?利害関係者から他の条例との関係で訴訟を起こされたときに、他の条例の上位に位置するという主張が通用するかどうか検討したことがあるのか?

・「地方自治の本旨に反するものは国法といえども違憲」?
よくわからない。具体的にはどういう事例があるのか?だいたい憲法92条はどう解釈していいかよくわからない条文で、地方自治の本旨が何を指すのか定説はない。

・「住民自治条例は行政側で条例案を用意するべきものではありません」?
では誰が作るのか?住民がつくるのか?サラリーマンをはじめ一般の市民は日常生活に忙しくて行政にかまっている余裕などないとは、著者自身が本書の冒頭に書いている。それとも、役所のあらさがしをするしか能のない一握りの現代版活動家に自治体の主導権を委ねよというのか?

・「IT時代の電子市役所」?
「役所での手続きが自宅のパソコンで24時間できる」については、本人確認が必要な場合は?手数料を支払う場合は?という疑問がある。理想としては良いが今の自治体にそれを実現できるノウハウも人材もない。ワンストップサービスとマルチアクセスサービスにいたっては何が電子市役所と関係があるのかさっぱりわからない。

・「納税組合をもっと国に働きかけろ」?
本書に記載の通り、すでに事務費部分以上の補助金については違法判決が出ている。何を時代遅れのことをいっているのであろうか。この本のタイトルは「自治体経営革命」のはず。納税組合などというムラ組織に頼って胡散臭い補助金を支出していないで、ビジネスライクに差し押さえすればいいだけの話である。

・(談合問題で)「業者を向くか住民を向くか問われる自治体の姿勢」?
業者=住民だから自治体は苦労している。「税金を払ってくれる住民の職場を役所がつぶしていいのか」ということでどこの自治体も頭を抱えているのだ。大見得きって問い詰めることのできる問題ではない。

・著者の意見の根本となる思想が見えてこない。現代リベラリズムなのか、リバタリアンなのか、それともcommy系列なのか?また、「行政の公権力の行使とは何か?」という基本中の基本についても何ら記載がないのはいったいどういうわけなのか?マスコミが新聞に書きたてた底の浅い問題しか書いていない。

・「道路は地域の生命線」?
繰り返して言うようだが、こういう主張をする本のどこが「自治体経営革命」なのだ?地方の道路整備のせいで日本の経済成長が低下すれば国民全体が迷惑する。それとも、どうせ衰退するならば都会もろとも・・・と考えているのであろうか。

・「中心市街地活性化はなぜ必要なのか」?
とタイトルに書きつつ、なぜ必要なのか答えを全く書いていない怪奇現象。(だんだん書くのがつらくなってきた)

と思いつくままに書いてみた。今までこのブログでは役所と公務員の悪口ばかり言ってきたが、上に記載した疑問点は数年間公務員として勤務した職員なら誰でも気づくような話ばかりである。なお、本書には『「インターネットに公開したのに反応がない」ということは消極的ながら賛成と同じことになります。公開された以上反論意見があれば述べるのは当然で・・・』と書いてあるので、当然ながら反論がなければ私の意見に賛成したと見なします。

2008年7月7日月曜日

アフリカの貧困

今日は洞爺湖サミットの日。G8首脳とアフリカ諸国首脳が会談したようなので、アフリカについて書く。ジョン・マクミラン「市場を創る」(NTT出版)には、次のようにある。

データの示すところによれば、通常、貧困は経済成長によって減少する。・・・持続的経済成長のために正しい分野に十分な量の投資がなされるようにするには、市場が必要である。・・・市場は自動的に成長をもたらすものではない。政府が経済から手を引き、ただ市場に物事を任せるだけでは十分ではないのである。・・・経済成長には市場が広範に存在していることだけでなく、市場がうまく設計されていることも必要である。・・・ある国は過酷なほど貧しいのに、ある国は安心して暮らせるほどに豊かであるという事実は、大部分それらの国々の制度の質によって説明することができる。・・・

つまり非常に簡単にまとめると、貧困の減少のためには経済成長、経済成長のためにはきちんと機能する市場、そして市場がきちんと機能するためには国家による経済的諸制度の確立が必要、となる。しかし、松本仁一「カラシニコフ」(朝日新聞社)には、アフリカの貧しい国々について、部族間の相違に配慮せず欧米諸国が国境線を引いたため、国としてのまとまりがない、という話がでてくる。そのような国々では「大統領」とは首都とその近辺を制圧した部族の長を指す。当然、同じ国内でも他部族の地域には無関心となる。したがって、経済成長のための全国的なインフラ整備ができない。

事情は個々の国々よって異なるため一概には言えないが、現代の先進国では決して容認できない独裁制も、貧困にあえぐアフリカ諸国では、初期の経済的諸制度の整備のため、強力な支配力を持った「善意の独裁者」が極めて有効になる。そして、ある国に「善意の独裁者」が出現するかどうかは運そのものであり、結局アフリカの問題は、なんとか解決しようと考えている限り、人智ではどうしようもないものなのである。

P.S. G8でのアフリカ諸国首脳は先進国の援助ばかり求めている。どこかの国の農業者や漁業者を連想してしまって非常に不愉快だ。先進国のなすべきことは、貿易障壁を取り払い、低開発国から農産物を輸入し、彼らに国際経済の枠組みの中で成長できる機会を与えてやることである。

2008年7月6日日曜日

教員採用汚職

大分県教育委員会で小学校の教員採用について汚職が発覚、逮捕者が出たとのニュースを見た。7月5日の記者会見で大分県教育長が「なぜ不正がおきたか、私自身が一番知りたい。二度と起きないための仕組みを作りたい」とコメントしているようだが、このようなチンケな汚職がおきるのは、私が先日このブログに記載したとおり(「自己完結する組織」)、現在の地方自治体が身内の職員同士の仲良しクラブに成り下がっているからである。

なお、せっかくの機会なので念のため助言しておくが、再発防止の仕組みをいくら作っても、運用する人間が今までどおりなあなあで事を進めれば何の役にも立たないであろう。それにしても、この程度の見識で教育長が務まることには大いに驚くが、こういうセコイ汚職ばかりやっている地方自治体が国に対して地方分権を求める身の程知らずぶりの方にも驚く。

P.S. 地方自治体の職員採用には胡散臭い、と思わざるを得ない部分が多い。規模の小さい某市の2次試験(面接試験)では、控え室で受験者どうしが自分のコネを自慢しあっている、という話を聞いたことがあるし、県と市を併願して、市の面接試験に行くと面接官から「県に合格しましたね。(なぜ市職員がそれを知っている?)」と言われて落とされる、という話も聞いたことがある。今もそうなのかは知らないが、少なくともたいていの職員は「詳しいことは分からないが職員採用にはどこか胡散臭いところがある」ということは知っていたのだから、もっと以前に採用方法についてはなんらかの工夫ができたはずである。

2008年7月5日土曜日

会津学鳳

会津若松市の富士通工場跡地にショッピングモールのような巨大な建物がある。最近できた県立中高一貫校会津学鳳高等学校中学校である。建設にいくらかかったのか?その費用を県ホームページ等ネットで調べてみたが良くわからない。これにはふたつ問題がある。

1 新設の公立校については、その建設費用を学校のホームページにきちんと記載すべきである。愛だの夢だの意味不明のビジョンを掲載していないで、我々市民の税金をどれだけ使ったのか、はっきりと誰にでもわかるように明示して欲しい。(何十億円もかけた結果が「愛」と「夢」では実に情けない、というか納税者をバカにしているのであろうか?)

2 1の当然の結果として、他人の税金を使ってあんな立派な学校をつくる必要があるのか?という疑問が生まれる。プレハブで勉強しろとは言わぬが、他人の税金を使う以上は、当然費用対効果に十分な配慮をすべきであって、「立派な校舎」というものを一般市民は全く必要としていない。公立学校の校舎はそこそこのレベルで当然である。財政上の規律はいったいどうなっているのか?

会津若松へ行ったときは、ショッピングモールのような巨大な学校をぜひ一度見てみよう。

佐高信氏

佐高信氏の講演会に行ってきた。8割方予想していたが、話の内容としては小泉・竹中は悪い奴、城山三郎は良い人という勧善懲悪時代劇流与太話の域を出ていなかった。肩書きに経済評論家とあるが、経済理論の話などまったくしていなかった。それでいいのであろうか?まあ肩書きはどうであれ、本職は実質ジャーナリストなのでそれでいいのであろう。それはそれとして、話す内容に徹底したWHYの追求がないのは日本の伝統的知識人の特徴ではないのか?まあ、いいや。

実は私が聞きたかったのは、誰が善人で誰が悪人かという話ではない。古い言葉に「鳥のまさに死なんとするや、その声や悲し」とある。鳥の言葉はわからないが、今死のうとしている鳥の鳴き声の悲しさは理解できる、という意味だが、同じように、我々が心から理解できるのは理路整然とした話でもなく、もちろん与太話でもなく、その人が内に蓄えた経験からにじみ出てくる魂の声である。だから、今日聞いた与太話的講演内容の半分も頭に残っていない(一応詳細なメモはとったので、それを見れば思い出す可能性もわずかにある)。

講演会ではご本人もおっしゃっていたが、講演の目的の半分は「週刊金曜日」の宣伝である。週刊金曜日は、報道内容に偏向のあるマスメディアが報道したがらない事実をちゃんと報道する、とさかんに宣伝しておられた。ちゃんと売り込みに来られるとは、素晴らしいことだと思う。それにこれだけ何がウリなのかはっきりしている雑誌も昨今稀である。だから、1冊500円などとセコイことを言っていないで、記事はタダでネットに公開すればよい。収入はネット広告と、読者からの寄付で賄えば週刊金曜日の報道内容は、もっと世間に広がるであろう。

ビル・ゲイツ

ひとつの政府は一万世帯の生活保護受給世帯に、生活扶助基準以上の生活を与えることはできない。しかし、ひとりのビル・ゲイツは一万人の労働者とその家族に、職と人並みの生活を与えることができる。いまや経済社会において、ひとつの政府の保有する実力は、たったひとりの偉大な起業家にも劣る時代なのである。従って政府の果たすべき役割とは、貧者に生活保護費を恵んで満足するのではなく、ロクに他人を雇うこともできない農業者や中小企業者の如き連中の既得権を守る規制を撤廃し、自由な競争の結果現れる利益至上主義の企業家がたとえ金の亡者であったとしても、誰からも後ろ指をさされない社会になるように、世の中の出来事に余計な口を挟まないことである。

「責任あるものは沈黙する」

誰の言葉だかは忘れたが、不作為もまたひとつの見識である。世の中の流れに合わせてキャンキャン騒ぐだけが能ではない。

2008年7月3日木曜日

自由をいかに守るか

渡部昇一著「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」(PHP新書)を読んでいる。内容的には、ハイエクはああ言った、こう言った、という文章ばかりが続き、私の学生時代の経済学部に大勢いた、マルクスはああ言った、こう言ったを繰り返してた先生方と大差ない。ただし、ハイエクの思想が今の平均的な日本人から見ると非常に斬新なせいか結構面白く読める。引用させてもらうと、この本の中には以下に示したのとおりの文章がある。

これは1940年代のイギリスのことをいっているのですが、「安全で給料の固定した仕事のほうが非利己的で清潔な職業だ」「リスクを負うような商業的な精神はいかがわしいもので、利益を得るのは不道徳だ」「100人を雇うのは搾取だが、100人に命令する立場は名誉だ」などと、小さいころから学校やメディアを通して教えられてきた青年たちが、安全で給料の固定した仕事に向かうのは無理のない話しだとハイエクはいいます。

私の感触では、役所で働く職員はほぼ十中八九上に引用した話に該当する。21世紀の公務員の意識は、1940年代のイギリス人と同じレベルなのである。

P.S. 私の持っているのは初版だが、p.206の”LORD ACTION”は、”LOAD ACTON”の間違いでは?

2008年7月2日水曜日

M-I-C-K-E-Y M-O-U-S-E

フルメタルジャケットという映画を見た。ベトナム戦争をテーマに80年代にアメリカで作られた映画だ。前半も中盤も後半も、これといってどうということもない普通の戦争映画だが、ラストシーンが印象的だった。暗闇の中、炎上する建物を背景に、およそ20人ほどのアメリカ兵が銃をかまえつつ、ミッキーマウスマーチを歌いながら行進していくシーンである。

というわけで、アメリカ兵が歌っているミッキーマウスマーチの歌詞が知りたくてインターネットで調べた。英語の歌詞は比較的簡単に見つかったのだが、確か劇中では、「・・・boys and girls・・・」と歌っていた。一方で私がネットで調べた歌詞には、そのような単語は含まれてはいない。これはどういう訳だ?ミッキーマウスの歌には歌詞が二種類あるのか?ということで、英語のサイトも覘いたのだが、語学が拙いせいでよくわからない。あらためて日本語のサイトを探していたら、2チャンネルの掲示板にちゃんと歌詞が掲載されていた。これを見つけたとき、実は少し涙ぐんでしまった。

幸福の定義は一元的には決めることができない。よく言われるように、それは人それぞれなのである。例え部屋に引きこもってネット漬けの毎日を送ろうとも、いかにもオタクといった格好でアキバに通いつめようとも、本人がそこに幸せを感じていれば、たとえ自分以外の全ての者が自分の感性を否定したとしても、それこそが絶対に譲ることのできない幸福の定義そのものなのである。そして、それぞれが好き勝手に(「他人に迷惑をかけない限りで」等の留保条件はあえてつけない。社会には法と慣習と道徳というものがあり、双方の利害が衝突する場合はそれらで解決すればいい。「他人に迷惑をかけない限りで」という条件をを付けると、そもそも、好き勝手に振舞うこと自体が道徳上許されざる行為となる。)自分の幸福を追求することが、実は他の人々の幸福にもつながるのである。ある人が好きで2チャンネルにスレを立てて、別の人が好きで書き込んだ結果が私の役に立った。赤の他人の好き勝手な行動が、全く予期しないことながら、別の人間の役に立つという社会の仕組みは、感動に値するほど素晴らしいものではないのか?

2008年7月1日火曜日

落書きで2点

私のパソコンはヤフーがデフォルトになっているので、インターネットに接続するとイヤでもヤフーのニュースが目に入る。ほとんど無視しているのだが、今日のニュースには面白いものがあった。イギリスの生徒が国語の試験問題の回答に「失せろ」(Fade awayか?)と書いたところ、27点満点の試験で2点もらったとのこと。責任者によれば、コミュニケーション能力とつづりの正確さを評価し、また句読点が付いていればさらに高い点数になっていた、とのこと。

大した不祥事でもないのにマスコミに騒がれると薄汚いハゲ頭を下げる見下げ果てた小汚いおっさんは、こういう気の利いた受け答えができないからマスコミからも市民からも叩かれるということにまだ気付いていない。遺跡に落書きした学生を停学にしてホッと胸をなでおろす教職員のいる大学に未来はないであろう。

自己完結する組織

私は今勤務している地方自治体以外で働いたことがないし、特に金に困ったこともないのでアルバイトもしたことがない。だから民間企業や商店や工場というのがどういう組織なのか感覚的にはわからない。しかし、今の地方自治体については次のように言うことができる。地方自治体は自己完結の組織である、と。建前上市民のために働くことになってはいるが、職員の目線の先にあるのはあるべき社会や現に生活している市民ではなく、上司と同僚を相手に如何に仕事をするか、ということである。社会の常識は役所の非常識と言われることがあるが、その非常識も自己保身のためには極めて有効である。うかつに最前線で「部外者の」市民を相手に大活躍しようものなら味方に後ろから撃たれる、というのが役所の世界なのである。

なぜなのか?というと、役所は身内のために働く自己完結の組織だから、というのが答えである。例えばイベントを計画してチケットがさばけないと(残念ながら、役所の企画したイベントでチケットを売り切ったという話は聞いたことがないが)管理職以上は購入を(マイルドに)強要される。購入依頼の文書にはたいてい「趣旨をご理解のうえ、ご購入願います」と書いてある。拒否する奴はKYという訳だ。計画をたてれば、あらゆる部局であらゆる計画が立てられ、そのために必要となる時間と労力は膨大であるが、効果的な計画など見たことも聞いたこともない。担当でなければ身内の職員ですら、読んでもよくわからない作文を作って終わりである。好奇心から不明な点について担当に説明を求めると、苛立ち混じりの良くわからない回答がなされる。形式上公表もされるが、市民からなにがしかの反応があることは全く期待されていない(というか誰もそんなものがあることを知らない)。これらはみな誰のための仕事でもなく、職員の、職員による、職員のための仕事なのであって、「部外者」とつながりのある奴、「部外者」相手に本気で仕事をしようとする奴の方が異端なのである。

組織の収入は税金で保証されている。あとは、身内の世界に引きこもり、身内同士で気分よく仕事ごっこができればいい、という組織に我々は決して安くはない税金を払っているのである。

コンビニの24時間営業自粛

ニュースで地方自治体がコンビニエンスストアの24時間営業を規制又は自粛の要請を検討している、という報道がなされている。私が読んでいる朝日新聞にはその理由として、温室効果ガスを減らすためというよりはむしろ浪費型ライフスタイルの変革を目指すと書いてある。規制を推進しようとしている東京都知事や神奈川県知事ら自治体の長は一体何様のつもりなのであろうか?他人の生活まであれこれ指図できるほど自分は偉いと思い込んでいるのか?もしそうであるならば、そのような人間に権力を握らせることほど危険なことはない。

個人の自由は経済的自由に基づく、と昔の偉い学者が言った事がある。コンビニの営業を規制し、タバコの販売を規制し、次は我々の生活の何を規制するつもりなのか?日本人は知らず知らずのうちに統制主義的思想に魂を売り渡し自由な社会を失っている。他の人はどうかは知らないが、私は個人生活のあらゆる面で行政の規制に従い、結果として得られるマゾヒスティックな奴隷の平和を賛美する趣味は全くない。

国際社会において地盤沈下する日本に苛立ち、その反動として自由な市場経済、自由な個人の生活をヒステリックに攻撃する者達が、結局は日本の地盤沈下をますます早めているのだ。

P.S. 同じ朝日新聞に、コンビニの深夜営業の規制について「全く考えていない」という山梨県知事のコメントが載っていた。同じ知事でも、中には常識円満な人もいる。

2008年6月29日日曜日

高校野球が嫌い

私の住んでいる県でも間もなく夏の甲子園の地方大会が始まるが、私は高校野球が大嫌いである。開会式で、腕と腿を高く上げて行進する高校生の姿を見ているとゾッとする。あれは昭和の昔、日本の年寄りどもが、負け戦と知りつつも、自分の国の若者を死地へ追いやった神宮の学徒出陣の光景そのものではないか。いつの時代も日本の年寄りは、若い連中が死んだり苦しんだりするのを意地悪く楽しむ。いっそのこと某平壌で某北朝鮮軍の軍事パレードに混ぜてもらえばどうか。違和感なく溶け込めるであろう。その他にも、上級生が下級生を殴ったとか、殴ったのは二年生だから三年生は出場停止にしないだとか、先日の朝日新聞の記事では、高校野球は日本の文化だと恥ずかしげもなく語っていたが、朝日が語る日本の文化とは、上に述べたような因循姑息な日本古来の伝統を指しているのであろう。

2008年6月28日土曜日

食品偽装

また食品偽装が発覚した。なぜこういうことが頻繁に起きるのか?理由は簡単。日本のブランド食品は、その実際の価値に比べて不当に高く評価されているからだ。日本のうなぎと中国のうなぎ、味にほとんど違いはないのに値段は数倍違う。そこを目ざとい商売人につけこまれているのだ。偽装問題は、日本のブランド牛肉やブランドうなぎの価格が高すぎるという市場からのメッセージである。

〇〇牛だの〇〇うなぎだのは日本人の日々の生活に必要な食料ではなく奢侈品である。そんなもんなくても誰もこまらない。国産のくだらない食品について大騒ぎするよりも、日本人の血肉になるホンモノの食料品が安価に安定的に供給されるにはどうすればよいか、ということにもっと大騒ぎするべきである。

P.S. アメリカ人の食生活はハンバーガーみたいなものばかり食べいて健康に悪い、一方で日本人の伝統的食生活は栄養バランスに優れている、という話題が相も変わらず声高に語られている。栄養学的にはそうかもしれないが、高カロリー食品を安価に大量に供給できる文明は、米と魚しかまともに供給できない文明より素晴らしいのではないか?スーパーに貧弱な食品が割高な値段で並んでいる。そしてそのことを誰も批判も批評もせずに、逆に日本的食生活は素晴らしい、と自慰的言い訳をしている。この社会はこれから衰退するんだろうな・・・

2008年6月27日金曜日

タバコが千円?

タバコが一箱千円になるかもしれない、というニュースを見た。こういうことを主張する人々は一体誰の利益を考えているのであろうか?人々の健康のため、社会全体の利益のため、という答えであるならば、私からの回答は次のとおりである。

余計なお世話だ。

社会とは、他人の純粋な善意で成り立っているのではなく、多くの人々の無数の個人的利益の追求のバランスの上に成り立っているのである。純粋の善意は、それがどんなに批判の余地のないものであっても人々に利益よりも害悪を与える。そういう連中を信じるくらいなら、既得権を守るため賄賂をばら撒く因循姑息な利権団体の方がまだ信用できる。

彼らはほんの少しでも考えたことがあるのであろうか?生活保護を受けている喫煙者にとって、タバコ一箱が千円になれば数少ない楽しみが奪われることを。精神科に入院している喫煙者にとって、喫煙できなくなれば病状が悪化する場合があることを。

タバコ一箱千円は日々の暮らしに何の不平不満もない金持ちの理屈である。彼らの視点から貧者弱者が抜け落ちていることは明らかであり、きっとそういう主張をする連中は、この世には生活保護制度や精神科病棟というものがあることを知らないのであろう。

人々よりも裕福な生活を送り、人々よりも大きな社会的影響力を持つ者は、自分自身の利益のみ追求していればよろしい。暇を持て余して善意を語るなかれ。

2008年6月26日木曜日

パチンコ税

地方都市は、どこへ行ってもパチンコ屋ばかりである。テレビコマーシャルでも朝から晩までパチンコの宣伝をやっている。「7のつく日は○○の日」とかいうコマーシャルを聞くと、最近では心底うんざりする。パチンコをやる人々は街中に雨後のタケノコの如く林立する巨大な店舗を見て、あれは我々の大半があそこで大損しているためだ、ということに気がつかないものなのであろうか?不思議である。

一方で、最近の地方自治体は地域経済の活性化のため涙ぐましい努力をしているが、そのほとんどが失敗しているといって差し支えない。相も変わらぬお祭りイベントと、民間レベルでせせこましく活動する団体への助成金で、地域経済が活性化するというおめでたい発想はいい加減やめるべきだ。日本の場合、地域経済なんか公共事業と農業補助金が削減されれば衰退するのは当然のことで、こういう社会全体のあたり前の流れに反して、行政が税金と人員を投入して地域経済の活性化を図るのは骨折り損以外のなにものでもない。私の支払った税金がそんな無駄なことに使われるのは真平御免である。

思うに、今の地方自治体として為すべきことは、金の流れを呼び込むことではなく、今現在の金の流れをある程度コントロールすることである。幸い(?)にして田舎にはパチンコ屋という、街一番の金持ちがいる。パチンコ屋に課税して財政の足腰を強化し、衰退する地方に暮らしている人々が少しでも暮らしやすくなるよう、教育と福祉という「まっとうな行政の仕事」にもっと資金を投入すべきではあるまいか。

三国志

部屋の隅に積んである本の詰まったダンボールを漁っていたら、中学時代に読んだ吉川栄治「三国志」が出てきた。三国志など高校生以上になったら持っているのも恥ずかしい本だが、ふとその魅力は何であろうかと考えてしまった。よく言われるように、それは数多くの個性豊かな登場人物なのであろう。子どものころは、テスト前なのに徹夜で読んだものだ。カリスマ性のある君主、勇猛果敢な将軍、神算鬼謀の軍師・・・

そこでふと考えてしまった。はて、軍師とは頭が良ければいいのであろうか?私も子どもの頃は単純にそうであると信じていたが、それ相応に社会での経験を積むと、そんな何でもかんでも先を見通して計画をたてる人間などいるわけがない、ということにイヤでも気づく。では三国志で軍師と呼ばれた人々は何なのであろうか?

諸葛孔明は三顧の礼をもって迎えられるまで、晴耕雨読の生活を送っていた。今から千数百年も前に悠々自適の生活を(しかもまだ二十代であった)送れるのは、どういった類の者であったのか?しかも孔明の一族は、魏呉蜀それぞれの国で重用され栄達している。連中はそろいもそろってそんなに優秀だったのか?

私は古代中国史についてはズブの素人だが、あえて推測すれば、たぶん軍師とは地主であったのであろう。だから晴耕雨読などという呑気なことができた。そして地主は多数の小作人を抱えており、小作人は戦時には兵隊となる。より多くの軍師を味方にできた君主は、より大きな戦力を保有できた・・・

大人になると三国志もずいぶんと味気ないものになる。

2008年6月24日火曜日

未来新聞

New New New York タイムズ 2208年6月24日

鎖国政策を続けている東洋の島国日本に、私は100年ぶりに上陸する外国人となった。1億人の人口を狭い耕地で養うため、この国では国民のほとんどが農業に従事しており、母国アメリカの基準では人が居住しないような急峻な山中にも、数多くの集落と田畑が存在している。人々は肌の色が妙に白い私に対しても親切で朗らかではあるが、生活は貧しく、彼らの先祖が500年前にそうしていたのとほぼ同じ生活水準で暮らしている。彼らは非常に利発で好奇心が強く、私に対して世界の国々のことをあれこれと質問したが、それは決まって周囲に他の日本人がいないときに限られた。彼らの社会では独自の意見や好奇心を持つことは不道徳と考えられており、人前であれこれしつこく質問したり演説したりすると、村の暴力嗜好のある若者たちに誘拐され、額に「KY」という刺青を入れられるそうだ。なお「KY」が何を意味するかは今となっては全く不明である。

200年前、世界的には「先祖がえり運動」と呼称されるこの国独特の運動で、それまで世界最先端を突き進んでいた日本の経済と科学技術は一気にアフリカ最貧国レベルにまで急落した。食糧難を煽る政府とマスコミにより多くの都市住民が田舎の農地を買い求め移住したためだ。私が取材した政府高官タロー・スズキ氏は「先祖がえり運動」についてどう思うかという私の質問にこう答えてくれた。
「国民が都市生活を放棄したため日本の二酸化炭素排出量は90%削減された。わが国は地球温暖化防止のために最も貢献した国のひとつである。それに人々は質素な食生活のため体が丈夫になり、平均寿命も以前までと大して変わりはない。そしてなによりも、年長者を敬い、友人知人には誠意をもって接し、国家には忠実である、という日本古来の美徳が復活したことは大変素晴らしいことだ」
地球温暖化という言葉は歴史学のクラス以外では初めて聞いた言葉であるが、日本人の官僚は非常に面子を重んじるということを事前にレクチャーされていたので、賢明にも敢えて指摘はしなかった。

日本の法律は非常に複雑緻密でまさに法律の芸術である。国民は朝昼晩の食事の内容も、夫婦の夜の営みの回数も政府の規制を受ける。そして人々は互いの私生活を微細な点まで監視しあっており、政府は警察官をほとんど雇うことなく、きわめて低いコストで国民に法律を守らせることができる。比喩的に表現するなら「スパイの生活と奴隷の平和」というところであろうか。このことについて、当事者である国民はどう思っているのであろうか?東京近郊で農業を営むジロー・サトー氏に自由についてのコメントを求めた。
「自由?おめぇ、法律にやっていいって書いてねぇ事をやるのは犯罪だべさ」
この国が国際社会に復帰するのはまだ先のようである。

ジョン・ドゥ reporting from トーキョー.

2008年6月23日月曜日

不調

本日は絶不調。1、2か月に1日の割合で必ずこういう日がある。頭がぼんやりしていて考えがまとまらない。この40分で原稿を3つ書いたが、すべて没にしたので、今日は文章投稿するのをやめる。

蛍を見た!

一昨日の夜の11時頃、家の近くで蛍を見た。小雨の中、歩いてコンビニに向かう途中だったのだが、何やら蛍光黄緑の光の粒ふらふらと漂っていた。魑魅魍魎の類かと思い、ゾっとしたが、道路に落ちたそいつに近づき、よく見てみると尾の光る小さい虫であった。とはいっても、私の住んでいる地区は近くに小さい山はあるが、自然とは余り縁のない住宅地だ。もともと田んぼであったために、道路沿いに水路が縦横に流れており、水量も多いがゴミも多い。しかし、いずれにせよ蛍をこの場所で見るとは思わなかった。自然は人知を超えているのだ。

2008年6月22日日曜日

肉食の思想

鯖田豊之著「肉食の思想」(中公新書)という本に、断絶理論という話が出てくる。かいつまんで言うと、白人は人間と動物、貴族と平民、キリスト教徒と非キリスト教徒をきっちりと区別するという話だ。ひさしぶりに読み返して、ふと最近の環境保護運動を連想した。

人間と自然を二分する環境保護運動の基本コンセプトは、まさに断絶理論そのものではないのであろうか?しかし、それは白人社会の文化が生み出した欧米オンリーの田舎臭い思い込みであって、世界普遍の共通の原理として、極東の島国が輸入する思想ではないと思う。運送会社の倉庫から鯨肉を盗み出して屁理屈をたれる一握りのファンダメンタリストは別として、こういうものの考え方には、誰しもが言うに言われぬいかがわしさを感じているはずだ。

自然の存在である人間が、自然のものを利用して作ったものは、すべて自然のものである。マグロの胃袋から出てくるビニール袋も、希少動物の絶滅も、何の不思議も驚きもない天然自然の現象である。もし、環境保護論者が自然をどうしようもなく愛しているというのであれば、南海の海底の珊瑚も、ドブ川の底のヘドロも、ひとしく愛していただきたい。

「肉食の思想」では、西洋では、断絶理論の強烈な峻別に対抗する形で、自由や平等といった近代思想が生まれたと話が続いていく。同じように、これからの先進国社会に必要なのは、「地球にやさしい」というたわ言に対抗する新たな思想ではないのか。

P.S. 「肉食の思想」は、私が高校生のとき親父の本棚からかっぱらった本である(もちろん、今では私のもの)。奥付を見ると昭和41年初版、昭和58年第36刷、定価380円となっている。新書が1冊380円とは時代を感じる。

2008年6月21日土曜日

東京までの距離

昨年か一昨年のことだが、妻と娘が東京へ旅行した。まだ幼い娘は、品川駅で大声で泣きはじめ、妻は駅のホームで途方にくれていた。妻の話によると、このとき上品な感じの老人が近づいてきて娘をあやしてくれたそうだ。泣き止んだ娘を受け取って妻が丁寧に礼を言うと、老人は「それじゃ!」とさわやかに去って行った。直後に、スポーツには全く疎い妻に、近くにいたオジサンが教えてくれた。「あれ誰だか知っている?ヤクルトの関根監督だよ」

こんな話は、東京では珍しくもないのであろう。しかし、有名人や芸能人が、すぐ近くに住んでいるということが、東京と田舎の大きな違いなのであって、東京ではテレビでみる世界が現実の世界として実感できる。それは住んでいる者一人ひとりの意識と行動に有形無形の影響を与えるのではないか。

大学受験で東京のホテルに宿泊したとき、テレビでニュースを見て衝撃を受けた。田舎の実家で見ているときには、全国のニュースや世界のニュースなど遠い別世界の話のような感じがしたが、自分の泊まっているホテルからさほど遠くない場所で、このニュースが放送されていると思うと、ただのニュース番組が妙に鮮やかに、そして、何かはっきりと意味を持ったものに見えた。私の人生で、テレビを見ていて衝撃を受けたのは、あの時だけである。

どんなに技術が進歩しても、そして、田舎でも東京と同じ暮らしができるようになったとしても、人々の意識上の距離は埋まらない。我々田舎に住む者たちは、物質的な生活は都会並であったとしても、社会に対する関心や、それに基づいた行動ができるかどうかの点で、東京からは遠く離れた生活を送っているのである。

2008年6月20日金曜日

才能は自由を求める

ション・マクミラン著「市場を創る」(NTT出版)という本に、「情報は自由(タダ)になりたがっている。情報は同時に高価になることも欲している」というコンピュータ業界の箴言が紹介されている。あえてパクらせてもらうと次のようになる。

「才能は自由(タダ)になることを求める。才能は同時に多くの人々に利用されることを欲している」

たぶん知的財産権が実質的に守るのはクリエーター個人の利益ではなく、クリエーターと市場経済の間を取り持つ業者の利益なのであろう。そして、当然ながら、業者が正当な競争の結果得た利益は保護されるに値するものである。それはそれでいい。問題なのは、作家や芸術家の知的財産権を守らないと彼らのインセンティブが保てない、というたわ言である。製薬会社が莫大な研究開発費をかけて得た成果を、同業他社がただで真似することができたら、どの製薬会社も、みすみす損をするとわかっている研究開発を行おうとはしないであろう。同じように、ある作家が書いた小説の海賊版が出回れば、その作家は執筆をやめる・・・はずがない!

才能は自由(タダ)になりたがっている。才能は同時に多くの人々に利用されるたがっている。本当に才能を持つ者は、体内から沸き起こるある種の押さえきれない表現への欲求をもっている。そして、自らの才能が多くの人々の目に留まり、利用され、あるいは役に立つことを心から望んでいる。金銭的見返りなどクソ食らえ、とは言わぬが、そこそこ豊かに暮らしていければそれで十分、と感じているはずである(才能の枯渇した者や、もともと持たない者はそうは感じないようだが・・・)。

同じ創造へのインセンティブでも、営利目的の会社と自然人では全く異なる。法によって守られるべきは、会社が行う創造への投資に対する正当な見返りであって、個人が持つ才能に対する見返りではない。

2008年6月19日木曜日

マイルドなカツアゲ

私の叔父は創業100年を越える老舗を経営していたが、10年前、家業の経営に行き詰って自殺した。後を継いだ従兄は何とかやり繰りしていたが、ついに昨年、店を放り出して夜逃げした。子どものころ、我が家のように出入りしていた店はもうない。しかし、商売をやっている以上、そういうことが起きるのは仕方のないことだと思う。

今日のネットのニュースに、イカ釣り漁船が原油高騰で出漁できない、という記事が載っていた。油の値段が上がれば、出漁できないのは当然である。当然でないのは、漁師が己の当たり前の権利を語るかのように国の支援を求めていたことだ。そういえば、テレビのドキュメンタリーとかで、農業者が国と国民の支援を求める姿もよく見受けられる。

君らはいったい何者なのだ?

私は、君らに百姓をやれと命令したことも、頼んだこともない。他の大多数の日本人もまたそうだ。日本では職業選択の自由は保障されており、君らは好きで百姓をやり、好きで漁師をやっている。なのになぜ、私が払った税金が、君らの生活を保護するために費やされねばならないのだ?中小企業の経営者は、たとえどんな不可抗力が働いたとしても、国の支援などあろうはずがなく、経営に失敗すれば、死ぬか夜逃げするんだよ。

社会に自由と競争と格差のあることが大嫌いな君らは、税金にたかりながら、好きな農業をぬるま湯状態で続けたいのかもしれないが、そういう君らを養っているのは、自殺や夜逃げのリスクを背負っている経営者や、下げたくもない頭を毎日下げているサラリーマンだ。

農産物が完全に自由化され、善良な市民から金を巻き上げている輩が社会から一掃されることを心から願う。

2008年6月17日火曜日

降伏のコスト

1945年8月15日、日本が無条件降伏する確率は100%であった。1日前の8月14日でもやはり100%であろう。さらに一日前の8月13日ではどうであろうか?そうやって、1日ずつ遡って考えていくと、日本が無条件降伏する確率が、100%より小さくなるのはいつであろうか?

いろいろ異論もあると思うが、概ね開戦から半年後のミッドウェー海戦、あるいは、その後のガダルカナル島の戦いの頃であろう。大勢としては、開戦当初から主導権を握って戦いを進めてきた日本軍は、この二つの戦いに敗れた後、アメリカ軍に主導権を握られ、東京まで一気に押し切られたのだから、ここらあたりがターニング・ポイントのはずである。だが、ミッドウェー・ガダルカナルで「勝負あった」のならば、その戦い以降に死んだ数百万の兵士や市民は、犬死であったのだろうか?

彼らの死は、日本が「無条件降伏」というコンセンサスを得るために必要なコストであった。そして、結果の側からみれば、総力戦を戦い抜くための戦争継続の努力は、降伏に必要なコストを吊り上げる。政府による情報管理、徴兵や勤労動員、産業界の再編、資源配分の統制は、結局は決して避けることのできない無条件降伏という結論に至るまでに、数年間という決して短くはない時間を稼ぎ、また、多くの同胞を死に追いやるための、ひとつに統合された精密な機構として機能したに過ぎない。

何の本で読んだか忘れたし、正確には覚えていないが、あるアメリカ人が日本人を次のように言っていた。「品よく負ける術を知らない、あわれな国民だと思うよ」

2008年6月16日月曜日

いい加減にして欲しい

今月から、車の後部座席でもシートベルトが必要になった。タバコを買うにもカードが必要だ。そういえば、自転車で歩道を走るのも禁止になった。規制ではないが、やれ「メタボ」だの「食育」だの、人様の食事の内容にまで、こまごまと口をはさむ奴がいる。この手の連中は、目に付いたもの全てを規制したり、指導したりすれば、世の中が良くなると本気で信じているのであろうか?


現代は、役所が社会の全ての情報を把握し、社会全体の利益を考慮して適切な規制を行う、という時代ではない。そもそも、そんなことができる役所が過去に存在したことはないし、これからも存在するはずがない。大事なのは、少数の例外的事例のために、その他大勢の者の行動を規制するのではなく、たとえそれが悲惨な事件事故であったとしても、あくまでも例外的事例に過ぎない、と冷静に認識することである。

自由は、ただで所持し続けることはできない。維持するにはコストが必要だ。役人が己の虚栄心のために、良識を捨ててあらゆる物事を規制しようとするならば、まさにその時が、必要な代価を支払う時ではないのか?市民がきちんと声をあげる時ではないのか?

タバコを吸う不良のために、自動販売機でタバコを売っていた商店の売り上げが落ちる、ということがあってはならない。何の病気にもかかっていないのに、腹回りを測っただけで病人扱いする、ということがあってはならない。そして、何よりも私は、陰湿で息苦しい社会が大嫌いなのだ。

2008年6月15日日曜日

給料が下がった!

財政難のため、4月から給料がカットされた。財政人事の担当課から、今後の見通しや原因について、とくに詳しい説明があったわけではない。職員一同、来るべきものが来た、という感じで淡々と受け止めている一方で、誰もはっきりと口には出さない疑問を抱えている。一体全体なぜこんなことになったのか?誰のせいでこんなことになったのか?

交付税の削減というのは理由にならない。数年前、国の財政状況をほんの少しでも考慮できる頭脳を持っていれば、交付税は減ることはあっても決して増えない、ということは十分に予見可能であったはずだ。近い将来、崖から転がり落ちることになるとうすうす知りつつも、目をそむけ、口をつぐんでいた者たちの責任は重い。

今回の給料カットは止むを得ない。しかし少なくとも、いつ、誰が、どこでしくじったのかをはっきりさせる必要はある。安易に職員の給料をカットして苦境を乗り切って、最後には、理由も責任もはっきりさせず有耶無耶に決着をつけると、将来再び同じ失敗を繰り返すことになる。

2008年6月10日火曜日

ついにブログに

日々の生活の中で、感じたこと、考えたことをブログに掲載したうえで、少しでも整理したい。なにしろ職場でも、自宅でも、パソコンの中でも、ごちゃごちゃと書きなぐったメモや、今となっては、どういう意図で作成したのかわからないファイルが散乱しているので・・・ 

「ブログである以上、他人に見られることもない訳じゃない」と考えると、この粗雑な癖も少しは改善されるはず。

というわけで、このブログは私の「公開メモ帳」です。ただし、あたりまえのことですが、職務上の守秘義務違反に該当する情報や他人の個人情報の暴露等、法規上あるいは社会通念上問題のある情報については、一切掲載するつもりはありません。