やり過ぎである。遺族に慰謝料をきちんと払っているのに、なぜ刑法上の責任を問われるのか全く納得がいかない。最近は遺族の感情ばかりを考慮した判決が多過ぎるし、刑法は遺族の復讐のためにあるわけではない。国でも地方自治体でも市民生活の安全を100%保障することなど絶対に不可能だ、というか「事後的には予見可能と判断されるが、実際には防ぎきれなかった」なんていう事故なんか、今後いくらでも起きるであろう。その責任者をいちいち業務上過失致死罪に問うつもりなのか?
だとすれば、役所としても安全マージンを可能な限り大きく取るしかない。少しでも危険な場所へは立ち入り禁止、少しでも危険が発生しそうなイベントは一切行わない、少しでも危険な行為に及ぼうとする者には事前に注意する・・・見事に管理社会のでき上がりである。一握りの遺族の私的復讐心への配慮のために、我々は事実上自由を捨てることになる。
ブルース・シュナイアー「セキュリティはなぜやぶられたのか」(日経BP)のP.412をパクると次のとおりになる。
絶対的なセキュリティをを与えてくれる聖杯があると考えるのは愚かと言わざるをえない。そんなことを考えると、進歩はとまり、自由は失われる。絶対的なセキュリティを求めると他のすべてを犠牲にしなくてはならず、ろくでもないトレードオフをがまんすることになる。人生にリスクはつきものであり、ときおりの事故は自由の代償なのだ。(注:太字部分を書き換えた)
たとえ私自身が不慮の事故で悲惨な死を遂げることになったとしても、私は自由の世界に生きていたい。

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