日本の雇用者報酬は2007年度で、およそ264兆円。
日本の労働力人口は、平成18年で6600万人。
単純に264兆円を6600万人で割ると、一人当たりの年収は400万円。
この数字が高いか低いかは微妙なところである。
今日は疲れたので続きはまた後日。
2008年8月7日木曜日
2008年8月6日水曜日
市場経済批判と士農工商
新聞や雑誌を見ていると、「行過ぎた市場原理主義」という表現を良く見かける。ホリエモンは金儲け第一主義を嫌われたし、人気の藤原某の「〇〇の品格」は市場経済をこき下ろしている。これは結果の平等を求める人間の原始的なメンタリティーとして説明可能なのであろうが、むしろ、日本人の場合、商人を最下級とみなす江戸時代の士農工商メンタリティーがまだ消滅しきっていない、ということではないのか。本やテレビや周囲の人間を観察しているとわかるのだが、たとえ知能や社会的身分が高くても、当たり前の感覚が欠如している連中に限って、やれ武士だ、武士道だ、と言う。あるいは言葉に出さないまでも、公に無私の心で奉仕することが世のため人のためであるだと思い込んでいる。
市場経済に基づく社会とはそのような考えを必要としない。そこでは、まず第一に、経済的利益のみが幸福のすべてでもない、という考えがあり、それ故に金儲けしたい奴は自由勝手にやればよいという自分は自分、他人は他人という考えに基づいている。おもちゃをたくさん持っている友人をひがむのというのは小学生でもしない。
士農工商メンタリティーとは結局、他人の人生を自分の色眼鏡で見ることだ。そういう国民がここまで経済的に発展したのは不思議ではあるが、所詮は武士の商法であった、と言われる時代が来るのであろう。
市場経済に基づく社会とはそのような考えを必要としない。そこでは、まず第一に、経済的利益のみが幸福のすべてでもない、という考えがあり、それ故に金儲けしたい奴は自由勝手にやればよいという自分は自分、他人は他人という考えに基づいている。おもちゃをたくさん持っている友人をひがむのというのは小学生でもしない。
士農工商メンタリティーとは結局、他人の人生を自分の色眼鏡で見ることだ。そういう国民がここまで経済的に発展したのは不思議ではあるが、所詮は武士の商法であった、と言われる時代が来るのであろう。
2008年7月27日日曜日
地球温暖化
私は、欧米の科学者の書いた「やさしい科学解説書」みたいな本が好きなので、わりと読んでいる。面白いのは、本筋から離れて、結構地球温暖化についてコメントする学者が結構多いことだ。はっきりと「地球温暖化はウソッパチ」と書く者、「二酸化炭素濃度の上昇は、気温を上昇させるかもしれないし、下降させるかもしれない」と書く者、とイロイロである。しかし、残念ながら、物理学者や化学者の書いた「やさしい科学解説書」で、地球温暖化をはっきりと肯定する意見は見たことがない。
一般の人々の中には、地球温暖化がウソッパチであると感じている人々はそれなりにいるはずなのに、国も自治体も企業も、みな組織の見解としては、一様に「地球温暖化防止」である。大まかに集約した人々の意見はいくつかにわかれるのに、社会の主要な組織の意見は完全にひとつでしかない。「地球温暖化防止に反対するキャンペーン」を展開する自治体も企業も、おそらくは世界中に、ひとつも存在しない、というのはちょと考えてみれば、実に気味の悪いことだ。
これは、典型的な翼賛体制であり、典型的なダブルスタンダードである。100年後だか、200年後だか知らないが、地球温暖化理論が破綻したあと、「俺も薄々そう思っていたんだよな・・・」では遅い。どれだけたくさんの資源が無駄に使われると思っているのか。日本人は第2次大戦後にも同じようなことを言ってきた。今度は世界レベルでその愚考を繰り返すつもりなのか?
一般の人々の中には、地球温暖化がウソッパチであると感じている人々はそれなりにいるはずなのに、国も自治体も企業も、みな組織の見解としては、一様に「地球温暖化防止」である。大まかに集約した人々の意見はいくつかにわかれるのに、社会の主要な組織の意見は完全にひとつでしかない。「地球温暖化防止に反対するキャンペーン」を展開する自治体も企業も、おそらくは世界中に、ひとつも存在しない、というのはちょと考えてみれば、実に気味の悪いことだ。
これは、典型的な翼賛体制であり、典型的なダブルスタンダードである。100年後だか、200年後だか知らないが、地球温暖化理論が破綻したあと、「俺も薄々そう思っていたんだよな・・・」では遅い。どれだけたくさんの資源が無駄に使われると思っているのか。日本人は第2次大戦後にも同じようなことを言ってきた。今度は世界レベルでその愚考を繰り返すつもりなのか?
2008年7月23日水曜日
2008年7月14日月曜日
過当競争って何だ?
私はただの公務員だし、学生時代みっちりと経済学を勉強したわけではないので、よくわからないのだが・・・先日ようやくジョン・マクミラン「市場を創る」を読み終えて、ひとつ疑問が残った。この本は現代の経済学上の諸問題を網羅的に取り上げているのだが、「過当競争」という言葉はどこにも出てこない。行き過ぎた競争とは、結構問題になると思うのだが・・・変に思ってwiki日本語版で検索してみたが、そのものズバリの項目はなかった。次にwiki英語版でexcessive competitionで検索してみたのだが、やはりそのものズバリの項目は引っかからなかった。
「過当競争」って経済学の用語ではないのか?
「過当競争」って経済学の用語ではないのか?
2008年7月10日木曜日
明石砂浜陥没事件
今日7月10日、明石市の砂浜が陥没して4歳の女児が生き埋めになった事件について、国交省職員ら4名が業務上過失致死罪に問われていたのだが、大阪高裁は、予見可能であったとして地裁の無罪判決を破棄した。
やり過ぎである。遺族に慰謝料をきちんと払っているのに、なぜ刑法上の責任を問われるのか全く納得がいかない。最近は遺族の感情ばかりを考慮した判決が多過ぎるし、刑法は遺族の復讐のためにあるわけではない。国でも地方自治体でも市民生活の安全を100%保障することなど絶対に不可能だ、というか「事後的には予見可能と判断されるが、実際には防ぎきれなかった」なんていう事故なんか、今後いくらでも起きるであろう。その責任者をいちいち業務上過失致死罪に問うつもりなのか?
だとすれば、役所としても安全マージンを可能な限り大きく取るしかない。少しでも危険な場所へは立ち入り禁止、少しでも危険が発生しそうなイベントは一切行わない、少しでも危険な行為に及ぼうとする者には事前に注意する・・・見事に管理社会のでき上がりである。一握りの遺族の私的復讐心への配慮のために、我々は事実上自由を捨てることになる。
ブルース・シュナイアー「セキュリティはなぜやぶられたのか」(日経BP)のP.412をパクると次のとおりになる。
たとえ私自身が不慮の事故で悲惨な死を遂げることになったとしても、私は自由の世界に生きていたい。
やり過ぎである。遺族に慰謝料をきちんと払っているのに、なぜ刑法上の責任を問われるのか全く納得がいかない。最近は遺族の感情ばかりを考慮した判決が多過ぎるし、刑法は遺族の復讐のためにあるわけではない。国でも地方自治体でも市民生活の安全を100%保障することなど絶対に不可能だ、というか「事後的には予見可能と判断されるが、実際には防ぎきれなかった」なんていう事故なんか、今後いくらでも起きるであろう。その責任者をいちいち業務上過失致死罪に問うつもりなのか?
だとすれば、役所としても安全マージンを可能な限り大きく取るしかない。少しでも危険な場所へは立ち入り禁止、少しでも危険が発生しそうなイベントは一切行わない、少しでも危険な行為に及ぼうとする者には事前に注意する・・・見事に管理社会のでき上がりである。一握りの遺族の私的復讐心への配慮のために、我々は事実上自由を捨てることになる。
ブルース・シュナイアー「セキュリティはなぜやぶられたのか」(日経BP)のP.412をパクると次のとおりになる。
絶対的なセキュリティをを与えてくれる聖杯があると考えるのは愚かと言わざるをえない。そんなことを考えると、進歩はとまり、自由は失われる。絶対的なセキュリティを求めると他のすべてを犠牲にしなくてはならず、ろくでもないトレードオフをがまんすることになる。人生にリスクはつきものであり、ときおりの事故は自由の代償なのだ。(注:太字部分を書き換えた)
たとえ私自身が不慮の事故で悲惨な死を遂げることになったとしても、私は自由の世界に生きていたい。
2008年7月5日土曜日
佐高信氏
佐高信氏の講演会に行ってきた。8割方予想していたが、話の内容としては小泉・竹中は悪い奴、城山三郎は良い人という勧善懲悪時代劇流与太話の域を出ていなかった。肩書きに経済評論家とあるが、経済理論の話などまったくしていなかった。それでいいのであろうか?まあ肩書きはどうであれ、本職は実質ジャーナリストなのでそれでいいのであろう。それはそれとして、話す内容に徹底したWHYの追求がないのは日本の伝統的知識人の特徴ではないのか?まあ、いいや。
実は私が聞きたかったのは、誰が善人で誰が悪人かという話ではない。古い言葉に「鳥のまさに死なんとするや、その声や悲し」とある。鳥の言葉はわからないが、今死のうとしている鳥の鳴き声の悲しさは理解できる、という意味だが、同じように、我々が心から理解できるのは理路整然とした話でもなく、もちろん与太話でもなく、その人が内に蓄えた経験からにじみ出てくる魂の声である。だから、今日聞いた与太話的講演内容の半分も頭に残っていない(一応詳細なメモはとったので、それを見れば思い出す可能性もわずかにある)。
講演会ではご本人もおっしゃっていたが、講演の目的の半分は「週刊金曜日」の宣伝である。週刊金曜日は、報道内容に偏向のあるマスメディアが報道したがらない事実をちゃんと報道する、とさかんに宣伝しておられた。ちゃんと売り込みに来られるとは、素晴らしいことだと思う。それにこれだけ何がウリなのかはっきりしている雑誌も昨今稀である。だから、1冊500円などとセコイことを言っていないで、記事はタダでネットに公開すればよい。収入はネット広告と、読者からの寄付で賄えば週刊金曜日の報道内容は、もっと世間に広がるであろう。
実は私が聞きたかったのは、誰が善人で誰が悪人かという話ではない。古い言葉に「鳥のまさに死なんとするや、その声や悲し」とある。鳥の言葉はわからないが、今死のうとしている鳥の鳴き声の悲しさは理解できる、という意味だが、同じように、我々が心から理解できるのは理路整然とした話でもなく、もちろん与太話でもなく、その人が内に蓄えた経験からにじみ出てくる魂の声である。だから、今日聞いた与太話的講演内容の半分も頭に残っていない(一応詳細なメモはとったので、それを見れば思い出す可能性もわずかにある)。
講演会ではご本人もおっしゃっていたが、講演の目的の半分は「週刊金曜日」の宣伝である。週刊金曜日は、報道内容に偏向のあるマスメディアが報道したがらない事実をちゃんと報道する、とさかんに宣伝しておられた。ちゃんと売り込みに来られるとは、素晴らしいことだと思う。それにこれだけ何がウリなのかはっきりしている雑誌も昨今稀である。だから、1冊500円などとセコイことを言っていないで、記事はタダでネットに公開すればよい。収入はネット広告と、読者からの寄付で賄えば週刊金曜日の報道内容は、もっと世間に広がるであろう。
ビル・ゲイツ
ひとつの政府は一万世帯の生活保護受給世帯に、生活扶助基準以上の生活を与えることはできない。しかし、ひとりのビル・ゲイツは一万人の労働者とその家族に、職と人並みの生活を与えることができる。いまや経済社会において、ひとつの政府の保有する実力は、たったひとりの偉大な起業家にも劣る時代なのである。従って政府の果たすべき役割とは、貧者に生活保護費を恵んで満足するのではなく、ロクに他人を雇うこともできない農業者や中小企業者の如き連中の既得権を守る規制を撤廃し、自由な競争の結果現れる利益至上主義の企業家がたとえ金の亡者であったとしても、誰からも後ろ指をさされない社会になるように、世の中の出来事に余計な口を挟まないことである。
「責任あるものは沈黙する」
誰の言葉だかは忘れたが、不作為もまたひとつの見識である。世の中の流れに合わせてキャンキャン騒ぐだけが能ではない。
「責任あるものは沈黙する」
誰の言葉だかは忘れたが、不作為もまたひとつの見識である。世の中の流れに合わせてキャンキャン騒ぐだけが能ではない。
2008年7月2日水曜日
M-I-C-K-E-Y M-O-U-S-E
フルメタルジャケットという映画を見た。ベトナム戦争をテーマに80年代にアメリカで作られた映画だ。前半も中盤も後半も、これといってどうということもない普通の戦争映画だが、ラストシーンが印象的だった。暗闇の中、炎上する建物を背景に、およそ20人ほどのアメリカ兵が銃をかまえつつ、ミッキーマウスマーチを歌いながら行進していくシーンである。
というわけで、アメリカ兵が歌っているミッキーマウスマーチの歌詞が知りたくてインターネットで調べた。英語の歌詞は比較的簡単に見つかったのだが、確か劇中では、「・・・boys and girls・・・」と歌っていた。一方で私がネットで調べた歌詞には、そのような単語は含まれてはいない。これはどういう訳だ?ミッキーマウスの歌には歌詞が二種類あるのか?ということで、英語のサイトも覘いたのだが、語学が拙いせいでよくわからない。あらためて日本語のサイトを探していたら、2チャンネルの掲示板にちゃんと歌詞が掲載されていた。これを見つけたとき、実は少し涙ぐんでしまった。
幸福の定義は一元的には決めることができない。よく言われるように、それは人それぞれなのである。例え部屋に引きこもってネット漬けの毎日を送ろうとも、いかにもオタクといった格好でアキバに通いつめようとも、本人がそこに幸せを感じていれば、たとえ自分以外の全ての者が自分の感性を否定したとしても、それこそが絶対に譲ることのできない幸福の定義そのものなのである。そして、それぞれが好き勝手に(「他人に迷惑をかけない限りで」等の留保条件はあえてつけない。社会には法と慣習と道徳というものがあり、双方の利害が衝突する場合はそれらで解決すればいい。「他人に迷惑をかけない限りで」という条件をを付けると、そもそも、好き勝手に振舞うこと自体が道徳上許されざる行為となる。)自分の幸福を追求することが、実は他の人々の幸福にもつながるのである。ある人が好きで2チャンネルにスレを立てて、別の人が好きで書き込んだ結果が私の役に立った。赤の他人の好き勝手な行動が、全く予期しないことながら、別の人間の役に立つという社会の仕組みは、感動に値するほど素晴らしいものではないのか?
というわけで、アメリカ兵が歌っているミッキーマウスマーチの歌詞が知りたくてインターネットで調べた。英語の歌詞は比較的簡単に見つかったのだが、確か劇中では、「・・・boys and girls・・・」と歌っていた。一方で私がネットで調べた歌詞には、そのような単語は含まれてはいない。これはどういう訳だ?ミッキーマウスの歌には歌詞が二種類あるのか?ということで、英語のサイトも覘いたのだが、語学が拙いせいでよくわからない。あらためて日本語のサイトを探していたら、2チャンネルの掲示板にちゃんと歌詞が掲載されていた。これを見つけたとき、実は少し涙ぐんでしまった。
幸福の定義は一元的には決めることができない。よく言われるように、それは人それぞれなのである。例え部屋に引きこもってネット漬けの毎日を送ろうとも、いかにもオタクといった格好でアキバに通いつめようとも、本人がそこに幸せを感じていれば、たとえ自分以外の全ての者が自分の感性を否定したとしても、それこそが絶対に譲ることのできない幸福の定義そのものなのである。そして、それぞれが好き勝手に(「他人に迷惑をかけない限りで」等の留保条件はあえてつけない。社会には法と慣習と道徳というものがあり、双方の利害が衝突する場合はそれらで解決すればいい。「他人に迷惑をかけない限りで」という条件をを付けると、そもそも、好き勝手に振舞うこと自体が道徳上許されざる行為となる。)自分の幸福を追求することが、実は他の人々の幸福にもつながるのである。ある人が好きで2チャンネルにスレを立てて、別の人が好きで書き込んだ結果が私の役に立った。赤の他人の好き勝手な行動が、全く予期しないことながら、別の人間の役に立つという社会の仕組みは、感動に値するほど素晴らしいものではないのか?
2008年7月1日火曜日
落書きで2点
私のパソコンはヤフーがデフォルトになっているので、インターネットに接続するとイヤでもヤフーのニュースが目に入る。ほとんど無視しているのだが、今日のニュースには面白いものがあった。イギリスの生徒が国語の試験問題の回答に「失せろ」(Fade awayか?)と書いたところ、27点満点の試験で2点もらったとのこと。責任者によれば、コミュニケーション能力とつづりの正確さを評価し、また句読点が付いていればさらに高い点数になっていた、とのこと。
大した不祥事でもないのにマスコミに騒がれると薄汚いハゲ頭を下げる見下げ果てた小汚いおっさんは、こういう気の利いた受け答えができないからマスコミからも市民からも叩かれるということにまだ気付いていない。遺跡に落書きした学生を停学にしてホッと胸をなでおろす教職員のいる大学に未来はないであろう。
大した不祥事でもないのにマスコミに騒がれると薄汚いハゲ頭を下げる見下げ果てた小汚いおっさんは、こういう気の利いた受け答えができないからマスコミからも市民からも叩かれるということにまだ気付いていない。遺跡に落書きした学生を停学にしてホッと胸をなでおろす教職員のいる大学に未来はないであろう。
2008年6月29日日曜日
高校野球が嫌い
私の住んでいる県でも間もなく夏の甲子園の地方大会が始まるが、私は高校野球が大嫌いである。開会式で、腕と腿を高く上げて行進する高校生の姿を見ているとゾッとする。あれは昭和の昔、日本の年寄りどもが、負け戦と知りつつも、自分の国の若者を死地へ追いやった神宮の学徒出陣の光景そのものではないか。いつの時代も日本の年寄りは、若い連中が死んだり苦しんだりするのを意地悪く楽しむ。いっそのこと某平壌で某北朝鮮軍の軍事パレードに混ぜてもらえばどうか。違和感なく溶け込めるであろう。その他にも、上級生が下級生を殴ったとか、殴ったのは二年生だから三年生は出場停止にしないだとか、先日の朝日新聞の記事では、高校野球は日本の文化だと恥ずかしげもなく語っていたが、朝日が語る日本の文化とは、上に述べたような因循姑息な日本古来の伝統を指しているのであろう。
2008年6月28日土曜日
食品偽装
また食品偽装が発覚した。なぜこういうことが頻繁に起きるのか?理由は簡単。日本のブランド食品は、その実際の価値に比べて不当に高く評価されているからだ。日本のうなぎと中国のうなぎ、味にほとんど違いはないのに値段は数倍違う。そこを目ざとい商売人につけこまれているのだ。偽装問題は、日本のブランド牛肉やブランドうなぎの価格が高すぎるという市場からのメッセージである。
〇〇牛だの〇〇うなぎだのは日本人の日々の生活に必要な食料ではなく奢侈品である。そんなもんなくても誰もこまらない。国産のくだらない食品について大騒ぎするよりも、日本人の血肉になるホンモノの食料品が安価に安定的に供給されるにはどうすればよいか、ということにもっと大騒ぎするべきである。
P.S. アメリカ人の食生活はハンバーガーみたいなものばかり食べいて健康に悪い、一方で日本人の伝統的食生活は栄養バランスに優れている、という話題が相も変わらず声高に語られている。栄養学的にはそうかもしれないが、高カロリー食品を安価に大量に供給できる文明は、米と魚しかまともに供給できない文明より素晴らしいのではないか?スーパーに貧弱な食品が割高な値段で並んでいる。そしてそのことを誰も批判も批評もせずに、逆に日本的食生活は素晴らしい、と自慰的言い訳をしている。この社会はこれから衰退するんだろうな・・・
〇〇牛だの〇〇うなぎだのは日本人の日々の生活に必要な食料ではなく奢侈品である。そんなもんなくても誰もこまらない。国産のくだらない食品について大騒ぎするよりも、日本人の血肉になるホンモノの食料品が安価に安定的に供給されるにはどうすればよいか、ということにもっと大騒ぎするべきである。
P.S. アメリカ人の食生活はハンバーガーみたいなものばかり食べいて健康に悪い、一方で日本人の伝統的食生活は栄養バランスに優れている、という話題が相も変わらず声高に語られている。栄養学的にはそうかもしれないが、高カロリー食品を安価に大量に供給できる文明は、米と魚しかまともに供給できない文明より素晴らしいのではないか?スーパーに貧弱な食品が割高な値段で並んでいる。そしてそのことを誰も批判も批評もせずに、逆に日本的食生活は素晴らしい、と自慰的言い訳をしている。この社会はこれから衰退するんだろうな・・・
2008年6月21日土曜日
東京までの距離
昨年か一昨年のことだが、妻と娘が東京へ旅行した。まだ幼い娘は、品川駅で大声で泣きはじめ、妻は駅のホームで途方にくれていた。妻の話によると、このとき上品な感じの老人が近づいてきて娘をあやしてくれたそうだ。泣き止んだ娘を受け取って妻が丁寧に礼を言うと、老人は「それじゃ!」とさわやかに去って行った。直後に、スポーツには全く疎い妻に、近くにいたオジサンが教えてくれた。「あれ誰だか知っている?ヤクルトの関根監督だよ」
こんな話は、東京では珍しくもないのであろう。しかし、有名人や芸能人が、すぐ近くに住んでいるということが、東京と田舎の大きな違いなのであって、東京ではテレビでみる世界が現実の世界として実感できる。それは住んでいる者一人ひとりの意識と行動に有形無形の影響を与えるのではないか。
大学受験で東京のホテルに宿泊したとき、テレビでニュースを見て衝撃を受けた。田舎の実家で見ているときには、全国のニュースや世界のニュースなど遠い別世界の話のような感じがしたが、自分の泊まっているホテルからさほど遠くない場所で、このニュースが放送されていると思うと、ただのニュース番組が妙に鮮やかに、そして、何かはっきりと意味を持ったものに見えた。私の人生で、テレビを見ていて衝撃を受けたのは、あの時だけである。
どんなに技術が進歩しても、そして、田舎でも東京と同じ暮らしができるようになったとしても、人々の意識上の距離は埋まらない。我々田舎に住む者たちは、物質的な生活は都会並であったとしても、社会に対する関心や、それに基づいた行動ができるかどうかの点で、東京からは遠く離れた生活を送っているのである。
こんな話は、東京では珍しくもないのであろう。しかし、有名人や芸能人が、すぐ近くに住んでいるということが、東京と田舎の大きな違いなのであって、東京ではテレビでみる世界が現実の世界として実感できる。それは住んでいる者一人ひとりの意識と行動に有形無形の影響を与えるのではないか。
大学受験で東京のホテルに宿泊したとき、テレビでニュースを見て衝撃を受けた。田舎の実家で見ているときには、全国のニュースや世界のニュースなど遠い別世界の話のような感じがしたが、自分の泊まっているホテルからさほど遠くない場所で、このニュースが放送されていると思うと、ただのニュース番組が妙に鮮やかに、そして、何かはっきりと意味を持ったものに見えた。私の人生で、テレビを見ていて衝撃を受けたのは、あの時だけである。
どんなに技術が進歩しても、そして、田舎でも東京と同じ暮らしができるようになったとしても、人々の意識上の距離は埋まらない。我々田舎に住む者たちは、物質的な生活は都会並であったとしても、社会に対する関心や、それに基づいた行動ができるかどうかの点で、東京からは遠く離れた生活を送っているのである。
2008年6月20日金曜日
才能は自由を求める
ション・マクミラン著「市場を創る」(NTT出版)という本に、「情報は自由(タダ)になりたがっている。情報は同時に高価になることも欲している」というコンピュータ業界の箴言が紹介されている。あえてパクらせてもらうと次のようになる。
「才能は自由(タダ)になることを求める。才能は同時に多くの人々に利用されることを欲している」
たぶん知的財産権が実質的に守るのはクリエーター個人の利益ではなく、クリエーターと市場経済の間を取り持つ業者の利益なのであろう。そして、当然ながら、業者が正当な競争の結果得た利益は保護されるに値するものである。それはそれでいい。問題なのは、作家や芸術家の知的財産権を守らないと彼らのインセンティブが保てない、というたわ言である。製薬会社が莫大な研究開発費をかけて得た成果を、同業他社がただで真似することができたら、どの製薬会社も、みすみす損をするとわかっている研究開発を行おうとはしないであろう。同じように、ある作家が書いた小説の海賊版が出回れば、その作家は執筆をやめる・・・はずがない!
才能は自由(タダ)になりたがっている。才能は同時に多くの人々に利用されるたがっている。本当に才能を持つ者は、体内から沸き起こるある種の押さえきれない表現への欲求をもっている。そして、自らの才能が多くの人々の目に留まり、利用され、あるいは役に立つことを心から望んでいる。金銭的見返りなどクソ食らえ、とは言わぬが、そこそこ豊かに暮らしていければそれで十分、と感じているはずである(才能の枯渇した者や、もともと持たない者はそうは感じないようだが・・・)。
同じ創造へのインセンティブでも、営利目的の会社と自然人では全く異なる。法によって守られるべきは、会社が行う創造への投資に対する正当な見返りであって、個人が持つ才能に対する見返りではない。
「才能は自由(タダ)になることを求める。才能は同時に多くの人々に利用されることを欲している」
たぶん知的財産権が実質的に守るのはクリエーター個人の利益ではなく、クリエーターと市場経済の間を取り持つ業者の利益なのであろう。そして、当然ながら、業者が正当な競争の結果得た利益は保護されるに値するものである。それはそれでいい。問題なのは、作家や芸術家の知的財産権を守らないと彼らのインセンティブが保てない、というたわ言である。製薬会社が莫大な研究開発費をかけて得た成果を、同業他社がただで真似することができたら、どの製薬会社も、みすみす損をするとわかっている研究開発を行おうとはしないであろう。同じように、ある作家が書いた小説の海賊版が出回れば、その作家は執筆をやめる・・・はずがない!
才能は自由(タダ)になりたがっている。才能は同時に多くの人々に利用されるたがっている。本当に才能を持つ者は、体内から沸き起こるある種の押さえきれない表現への欲求をもっている。そして、自らの才能が多くの人々の目に留まり、利用され、あるいは役に立つことを心から望んでいる。金銭的見返りなどクソ食らえ、とは言わぬが、そこそこ豊かに暮らしていければそれで十分、と感じているはずである(才能の枯渇した者や、もともと持たない者はそうは感じないようだが・・・)。
同じ創造へのインセンティブでも、営利目的の会社と自然人では全く異なる。法によって守られるべきは、会社が行う創造への投資に対する正当な見返りであって、個人が持つ才能に対する見返りではない。
2008年6月19日木曜日
マイルドなカツアゲ
私の叔父は創業100年を越える老舗を経営していたが、10年前、家業の経営に行き詰って自殺した。後を継いだ従兄は何とかやり繰りしていたが、ついに昨年、店を放り出して夜逃げした。子どものころ、我が家のように出入りしていた店はもうない。しかし、商売をやっている以上、そういうことが起きるのは仕方のないことだと思う。
今日のネットのニュースに、イカ釣り漁船が原油高騰で出漁できない、という記事が載っていた。油の値段が上がれば、出漁できないのは当然である。当然でないのは、漁師が己の当たり前の権利を語るかのように国の支援を求めていたことだ。そういえば、テレビのドキュメンタリーとかで、農業者が国と国民の支援を求める姿もよく見受けられる。
君らはいったい何者なのだ?
私は、君らに百姓をやれと命令したことも、頼んだこともない。他の大多数の日本人もまたそうだ。日本では職業選択の自由は保障されており、君らは好きで百姓をやり、好きで漁師をやっている。なのになぜ、私が払った税金が、君らの生活を保護するために費やされねばならないのだ?中小企業の経営者は、たとえどんな不可抗力が働いたとしても、国の支援などあろうはずがなく、経営に失敗すれば、死ぬか夜逃げするんだよ。
社会に自由と競争と格差のあることが大嫌いな君らは、税金にたかりながら、好きな農業をぬるま湯状態で続けたいのかもしれないが、そういう君らを養っているのは、自殺や夜逃げのリスクを背負っている経営者や、下げたくもない頭を毎日下げているサラリーマンだ。
農産物が完全に自由化され、善良な市民から金を巻き上げている輩が社会から一掃されることを心から願う。
今日のネットのニュースに、イカ釣り漁船が原油高騰で出漁できない、という記事が載っていた。油の値段が上がれば、出漁できないのは当然である。当然でないのは、漁師が己の当たり前の権利を語るかのように国の支援を求めていたことだ。そういえば、テレビのドキュメンタリーとかで、農業者が国と国民の支援を求める姿もよく見受けられる。
君らはいったい何者なのだ?
私は、君らに百姓をやれと命令したことも、頼んだこともない。他の大多数の日本人もまたそうだ。日本では職業選択の自由は保障されており、君らは好きで百姓をやり、好きで漁師をやっている。なのになぜ、私が払った税金が、君らの生活を保護するために費やされねばならないのだ?中小企業の経営者は、たとえどんな不可抗力が働いたとしても、国の支援などあろうはずがなく、経営に失敗すれば、死ぬか夜逃げするんだよ。
社会に自由と競争と格差のあることが大嫌いな君らは、税金にたかりながら、好きな農業をぬるま湯状態で続けたいのかもしれないが、そういう君らを養っているのは、自殺や夜逃げのリスクを背負っている経営者や、下げたくもない頭を毎日下げているサラリーマンだ。
農産物が完全に自由化され、善良な市民から金を巻き上げている輩が社会から一掃されることを心から願う。
2008年6月17日火曜日
降伏のコスト
1945年8月15日、日本が無条件降伏する確率は100%であった。1日前の8月14日でもやはり100%であろう。さらに一日前の8月13日ではどうであろうか?そうやって、1日ずつ遡って考えていくと、日本が無条件降伏する確率が、100%より小さくなるのはいつであろうか?
いろいろ異論もあると思うが、概ね開戦から半年後のミッドウェー海戦、あるいは、その後のガダルカナル島の戦いの頃であろう。大勢としては、開戦当初から主導権を握って戦いを進めてきた日本軍は、この二つの戦いに敗れた後、アメリカ軍に主導権を握られ、東京まで一気に押し切られたのだから、ここらあたりがターニング・ポイントのはずである。だが、ミッドウェー・ガダルカナルで「勝負あった」のならば、その戦い以降に死んだ数百万の兵士や市民は、犬死であったのだろうか?
彼らの死は、日本が「無条件降伏」というコンセンサスを得るために必要なコストであった。そして、結果の側からみれば、総力戦を戦い抜くための戦争継続の努力は、降伏に必要なコストを吊り上げる。政府による情報管理、徴兵や勤労動員、産業界の再編、資源配分の統制は、結局は決して避けることのできない無条件降伏という結論に至るまでに、数年間という決して短くはない時間を稼ぎ、また、多くの同胞を死に追いやるための、ひとつに統合された精密な機構として機能したに過ぎない。
何の本で読んだか忘れたし、正確には覚えていないが、あるアメリカ人が日本人を次のように言っていた。「品よく負ける術を知らない、あわれな国民だと思うよ」
いろいろ異論もあると思うが、概ね開戦から半年後のミッドウェー海戦、あるいは、その後のガダルカナル島の戦いの頃であろう。大勢としては、開戦当初から主導権を握って戦いを進めてきた日本軍は、この二つの戦いに敗れた後、アメリカ軍に主導権を握られ、東京まで一気に押し切られたのだから、ここらあたりがターニング・ポイントのはずである。だが、ミッドウェー・ガダルカナルで「勝負あった」のならば、その戦い以降に死んだ数百万の兵士や市民は、犬死であったのだろうか?
彼らの死は、日本が「無条件降伏」というコンセンサスを得るために必要なコストであった。そして、結果の側からみれば、総力戦を戦い抜くための戦争継続の努力は、降伏に必要なコストを吊り上げる。政府による情報管理、徴兵や勤労動員、産業界の再編、資源配分の統制は、結局は決して避けることのできない無条件降伏という結論に至るまでに、数年間という決して短くはない時間を稼ぎ、また、多くの同胞を死に追いやるための、ひとつに統合された精密な機構として機能したに過ぎない。
何の本で読んだか忘れたし、正確には覚えていないが、あるアメリカ人が日本人を次のように言っていた。「品よく負ける術を知らない、あわれな国民だと思うよ」
2008年6月16日月曜日
いい加減にして欲しい
今月から、車の後部座席でもシートベルトが必要になった。タバコを買うにもカードが必要だ。そういえば、自転車で歩道を走るのも禁止になった。規制ではないが、やれ「メタボ」だの「食育」だの、人様の食事の内容にまで、こまごまと口をはさむ奴がいる。この手の連中は、目に付いたもの全てを規制したり、指導したりすれば、世の中が良くなると本気で信じているのであろうか?
現代は、役所が社会の全ての情報を把握し、社会全体の利益を考慮して適切な規制を行う、という時代ではない。そもそも、そんなことができる役所が過去に存在したことはないし、これからも存在するはずがない。大事なのは、少数の例外的事例のために、その他大勢の者の行動を規制するのではなく、たとえそれが悲惨な事件事故であったとしても、あくまでも例外的事例に過ぎない、と冷静に認識することである。
自由は、ただで所持し続けることはできない。維持するにはコストが必要だ。役人が己の虚栄心のために、良識を捨ててあらゆる物事を規制しようとするならば、まさにその時が、必要な代価を支払う時ではないのか?市民がきちんと声をあげる時ではないのか?
タバコを吸う不良のために、自動販売機でタバコを売っていた商店の売り上げが落ちる、ということがあってはならない。何の病気にもかかっていないのに、腹回りを測っただけで病人扱いする、ということがあってはならない。そして、何よりも私は、陰湿で息苦しい社会が大嫌いなのだ。
現代は、役所が社会の全ての情報を把握し、社会全体の利益を考慮して適切な規制を行う、という時代ではない。そもそも、そんなことができる役所が過去に存在したことはないし、これからも存在するはずがない。大事なのは、少数の例外的事例のために、その他大勢の者の行動を規制するのではなく、たとえそれが悲惨な事件事故であったとしても、あくまでも例外的事例に過ぎない、と冷静に認識することである。
自由は、ただで所持し続けることはできない。維持するにはコストが必要だ。役人が己の虚栄心のために、良識を捨ててあらゆる物事を規制しようとするならば、まさにその時が、必要な代価を支払う時ではないのか?市民がきちんと声をあげる時ではないのか?
タバコを吸う不良のために、自動販売機でタバコを売っていた商店の売り上げが落ちる、ということがあってはならない。何の病気にもかかっていないのに、腹回りを測っただけで病人扱いする、ということがあってはならない。そして、何よりも私は、陰湿で息苦しい社会が大嫌いなのだ。
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