2008年7月30日水曜日

PR下手

清沢洌「暗黒日記」(ちくま学芸文庫)の昭和18年12月6日に、
日本が宣伝下手というのが日本人がアドミットする唯一の弱みである。他はすべて日本人が優れていると思っているのに。我等から見れば日本人ほど自家宣伝する国民は他にない。
という文章があった。我が県は、わが町は、我が地方は、PRが下手だから・・・という話は、実は公務員になってイヤになるほど聞いてきた。実際は、日本の田舎ほどPR好きなところは他にはないのに・・・
日本の地方に住む人々は、地方には優れたものがたくさんあるのにPR下手だから世間から評価されていない、という自己欺瞞を堂々と唱えている。無理な背伸びはしないで、身の丈にあった工夫を積み重ねていけばいいのに、と思うのだが、一般には、もともと優れているのだから、メディアに大きく取り上げられれば、すべてうまくいく、と考えるらしい。もともと大したものはないのだから・・・という冷静な意見は、ムラ的感情論によって封殺される。
村おこし、町おこしは、「ここには何も優れたものはない」という前提から始まらなければならないのえあろう。もし、その前提を論破できるに足る十分な資源があれば、その場合はそれを生かす道を考えていけばいいだけである。最初から、やれ蛍だ、やれ伝統芸能だ、特産の野菜だ、と議論する前から議論の範囲を狭めているから、ロクなアイディアがでないし、何をやってもうまくいかないのだ。

2008年7月27日日曜日

「公貧社会を読み解く」

2008年7月27日の朝日新聞に「公貧社会を読み解く」というタイトルで記事が載っていた。論旨を簡単にまとめるこうなる。

アフリカ諸国が経済発展できないのは、経済基盤を整備するという「公」の果たすべき役割が貧弱すぎるためである。日本でも、同じように公の貧弱さが、格差社会や老後・雇用の不安をもたらしている。

前半は全く正しい。しかし後半は、全くでたらめである。まず、格差を是正したいのなら、その方法は規制や課税ではなく、経済成長が必要不可欠だ。「上げ潮はすべてのボートを引き上げる」というわけだ。そしてそのためには、無意味な規制を取り払って、企業の新規参入を促し、競争を促進する必要がある。次に、老後に不安を抱くのは誰しも同じ事で、かといって、これ以上年金を増やすことはできない。それとも、老人に何不自由なく暮らせるほど十分な年金を与えよ、というのか?若い連中から、彼らが必死になって稼いだ金を毟り取って、日本を現在の苦境へ追い込んだ張本人どもに、遊んで寝て暮らすために十分な年金を与えよ、というのか?馬鹿げた発言はいい加減にして欲しい。最後に雇用である。派遣労働者や最低賃金を規制すれば、日本人労働者ではなく外国人労働者、あるいは日本国内ではなく海外への企業の移転となることは目に見えている。朝日新聞は先手を打って、今度は「名目上研修なのに、実質日本に働きにくる外国人労働者を守れキャンペーン」を張るようだが、今後おそらく外国人労働者が増えていくのは、日本のメディアが「派遣労働者を守れキャンペーン」を行った結果だということをどの程度認識しているのであろうか。っていうよりこの国メディアはどれだけ国民に有害無意味な影響を与えれば気が済むのであろうか?

我々の国は、アフリカに蠢いている国家の体を成していない国々とは異なる。すでに基本的な法体系は整備され、インフラも十分整っている。大きな経済成長も成し遂げた(過去の話だが)。したがって、行うべきは国の市場への過剰な介入の排除である。規制緩和と自由化は必ず大きな痛みを伴い、そしてたぶん10年や20年は続くであろう。しかし、最終的な成功を手にしたいのならば、(私は大嫌いなのだが、新聞が大好きな表現を使うと)「未来の子どもたちのために」敢えて今の我々がその痛みを引き受けるべきである。

先日朝日新聞の経済気象台というコーナーに、「市場経済は社会に貢献する必要がある」という旨の記載があった。市場経済は社会に貢献するのではなく、個々の効用に貢献するのである。社会に貢献する市場経済とは、藤原某のいう武士道経済学のことか?朝日の経済部記者のpolitical economyに対する認識とはこの程度のものか、と唖然とした。

地球温暖化

私は、欧米の科学者の書いた「やさしい科学解説書」みたいな本が好きなので、わりと読んでいる。面白いのは、本筋から離れて、結構地球温暖化についてコメントする学者が結構多いことだ。はっきりと「地球温暖化はウソッパチ」と書く者、「二酸化炭素濃度の上昇は、気温を上昇させるかもしれないし、下降させるかもしれない」と書く者、とイロイロである。しかし、残念ながら、物理学者や化学者の書いた「やさしい科学解説書」で、地球温暖化をはっきりと肯定する意見は見たことがない。

一般の人々の中には、地球温暖化がウソッパチであると感じている人々はそれなりにいるはずなのに、国も自治体も企業も、みな組織の見解としては、一様に「地球温暖化防止」である。大まかに集約した人々の意見はいくつかにわかれるのに、社会の主要な組織の意見は完全にひとつでしかない。「地球温暖化防止に反対するキャンペーン」を展開する自治体も企業も、おそらくは世界中に、ひとつも存在しない、というのはちょと考えてみれば、実に気味の悪いことだ。

これは、典型的な翼賛体制であり、典型的なダブルスタンダードである。100年後だか、200年後だか知らないが、地球温暖化理論が破綻したあと、「俺も薄々そう思っていたんだよな・・・」では遅い。どれだけたくさんの資源が無駄に使われると思っているのか。日本人は第2次大戦後にも同じようなことを言ってきた。今度は世界レベルでその愚考を繰り返すつもりなのか?

2008年7月23日水曜日

ソフトに弱い国

学生時代第2次大戦のマニアだったので、結構その手の本を読んだ。大まかに言うと、日本は軍事におけるソフト面が非常に弱かった(ハードも大したことなかったが、それでもソフトの遅れよりはましであった)という印象だ。翻って現在の行政を考えてみると、道路づくりは得意だが、それをどのように生かすとか、あるいはどういうコンセプトで作るとか、そういう部分はからっきし駄目である。我々日本人の宿命なのか、それとも進歩の途中なのか、いずれにせよ、ソフトの弱い国は将来沈没していくしかないであろう。

2008年7月22日火曜日

「社会的共通資本」

宇沢弘文著「社会的共通資本」(岩波文庫)を読んだ。近所の本屋で売れ残っていたのを買ってきたのだが、内容がよくわからない。
生産、流通、消費の過程で制約的となるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本の二つに分類される。社会的共通資本は、私的資本とは異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する。・・・社会的共通資本は土地、大気、土壌、森林、河川、海洋などの自然環境だけではなく道路、上水道、公共的交通機関、電力、通信施設などの社会的インストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などのいわゆる制度資本をも含む。・・・社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなくてはならない。
感想1 資本とは、金融資本、物的資本、人的資本ぐらいかと思っていたけど、それ以外にも色々あるのね。あんまり聞かないけど・・・

感想2 行政も資本なんだ。ふぅん。

感想3 もし、社会的共通資本の管理を委ねる機構を政府とは別につくったとしても、政府の監視監督を受ける以上、実際には政府の一部門になりますよ。つまり、「社会的共通資本」が描く理想の社会とは、個人の自由よりも社会のインフラや、環境、農業への統制、保護を優先し、個人の自由はそれらを邪魔しない場合において認められる事実上の社会主義社会ということなのか・・・

もっと理論的な内容を期待していたのだが、ワリと感情論が前面に出てくる内容であった。人間が人間らしく、という理想はわからないでもないが、それはすべての人が、何不自由ない生活を送れるようになってから実現されるものであって、人類がそのようなことを言うのは1000年早い。

2008年7月21日月曜日

野菜を売るには?

妻の職場では、毎年地元のお祭りで「環境とお肌に優しい手作り石鹸」なるものを売っている。祭りで売るにはどうかと思うし、何やらいかがわしい感じがするが、今年は新入社員に地元の農家出身の若者がいるので、野菜を安く仕入れて、石鹸と一緒に売りつけようと算段しているようだ。ところがこの企画の責任者は結構用心深い性格で、妻の話によると「お前の旦那は公務員なんだから、野菜を売るのに許可が必要かどうか、ちょっと聞いて来い」と指示したとのこと。

というわけで、お答えします。ズバリ専門外なのでわかりません。ただ、別に加工したり調理したりするのではないのだから、許可は必要ないはず・・・と、せっかくのご質問なのに、そっけない答えではさびしいので、ネットで調べた。どうもやはり出店程度のところで野菜を売るのに許可は必要ないようだ

実は妻からこの話を聞いたとき、すこしだけゾッとした。一般の人々は、たかだか野菜を売るにも許可が必要なのかも、と本気で考えている。野菜を売るのにいちいち役所の許可が必要とは、いったいどういう社会なのであろうか?マスコミが煽り、役所がくだらないことで社会を規制するから、人々の持って生まれた当たり前の常識感覚が失われている。

一番危険なのは、何でもかんでも規制する政府ではなく、それを当たり前のことと考える市民の意識である。我々の歩む道は全体主義へと続いていくのであろうか?

2008年7月20日日曜日

観光産業

国の観光立国推進にあわせて、あちこちの自治体での観光業の推進が図られている。なぜ観光かというと、経済波及効果が高いから、というのがその理由だが、いまどき経済波及効果などという怪しげな理屈を語っているのは観光を語る役所だけである。あちこちの自治体のHPを見ると、観光→波及効果が高い→域内自給率が高まる→地域が潤う、という論法のようだ。だが、私は公務員だし、私の近所に住んでいる人々も、工場で働くオジサンだったり、全国的な企業の地元支店で働くサラリーマンであったりして、観光が盛んになったからといって懐の潤うものは一人もいない。

いいかげんこういうくだらない仕事はやめて欲しいものである。昔、ある観光関係の会議で、某自治体職員が「観光客がたくさん来たからといって、誰の懐が潤うのですか?」と至極真っ当な質問をしたが、全員から黙殺された。観光客がたくさん来て儲かるのは、地元のボス的存在の方々だけで、地方都市の勤労者の大部分はサラリーマンなので関係があろうはずがない。役人とは人様の税金を使ってくだらない事をやりたい放題だな。連中の脳髄は正常なのであろうか?

そもそも、経済がどのように発展していくかなど、だれにも予測できないものである。昔鄧小平が、中国経済がこのような形で発展していくことを、共産党幹部の誰一人として予測していなかった、という意味の発言をしたが、まさにそのとおりである。仮に将来地域活性化で成功するとしても(その確率はほぼゼロだが)、現時点でどのように成功するかは誰にも予見できないのである。役所の青写真のとおり経済が動くと思うこと自体、勘違いも甚だしい。多くの職員は、こういう取り組みが失敗することはウスウス感じているが、誰も声をあげないし、そもそもそのような声を生かす仕組みがないのが、今の地方自治体の最大の欠点のひとつである。

2008年7月15日火曜日

戒石銘

福島県二本松市には「戒石銘」なるものがある。江戸時代のお侍の言葉が彫られた石だ。福島県内で勤務する公務員は、研修や職員が不祥事を起こすたびに、この「戒石銘」なるものの話を聞かされる。
爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺

二本松市のホームページでは、「お前がお上から頂く給料は、人民の汗と脂の結晶である。下々の人民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできない」という訳が掲載されている。なんとなく眺めているといろいろと疑問がわいてくる。

  • 「下民易虐」に「かみんはしいたげやすき」とカナをふっているが、江戸時代のお侍が農民を見下した雰囲気を出すならば、「かみん」ではなく「げみん」と読み下すべきであろう。まあ、これについてはどっちでも間違いではないのだが・・・
  • 農民を下民と見くだし、あげくのはてに「虐げ易い」といっている文章を職員の研修教材にする、地方自治体のお偉方の感覚は、いったいどうなっているのであろうか?自分たちを「武士」だとでも思っているのであろうか?残念ながらあなたがたは、ただの小汚いオッサンです。
  • 訳で「神をあざむくことはできない」となっているが、天=神ではない。天は、人間では知覚できない世の理といった意味があるが、基本的にはこれは古代東洋の知識人の思想である。一方で、神とは創造主、あるいは不可思議な力を持つものを指し、身分にかかわりなく信仰の対象となるものである。

ざっとみて3点の疑問が出てくるのだが、この程度のこともわからないのが今の公務員なのである。今後役所の地盤沈下はますます進むであろう。

2008年7月14日月曜日

過当競争って何だ?

私はただの公務員だし、学生時代みっちりと経済学を勉強したわけではないので、よくわからないのだが・・・先日ようやくジョン・マクミラン「市場を創る」を読み終えて、ひとつ疑問が残った。この本は現代の経済学上の諸問題を網羅的に取り上げているのだが、「過当競争」という言葉はどこにも出てこない。行き過ぎた競争とは、結構問題になると思うのだが・・・変に思ってwiki日本語版で検索してみたが、そのものズバリの項目はなかった。次にwiki英語版でexcessive competitionで検索してみたのだが、やはりそのものズバリの項目は引っかからなかった。

「過当競争」って経済学の用語ではないのか?

2008年7月10日木曜日

明石砂浜陥没事件

今日7月10日、明石市の砂浜が陥没して4歳の女児が生き埋めになった事件について、国交省職員ら4名が業務上過失致死罪に問われていたのだが、大阪高裁は、予見可能であったとして地裁の無罪判決を破棄した

やり過ぎである。遺族に慰謝料をきちんと払っているのに、なぜ刑法上の責任を問われるのか全く納得がいかない。最近は遺族の感情ばかりを考慮した判決が多過ぎるし、刑法は遺族の復讐のためにあるわけではない。国でも地方自治体でも市民生活の安全を100%保障することなど絶対に不可能だ、というか「事後的には予見可能と判断されるが、実際には防ぎきれなかった」なんていう事故なんか、今後いくらでも起きるであろう。その責任者をいちいち業務上過失致死罪に問うつもりなのか?

だとすれば、役所としても安全マージンを可能な限り大きく取るしかない。少しでも危険な場所へは立ち入り禁止、少しでも危険が発生しそうなイベントは一切行わない、少しでも危険な行為に及ぼうとする者には事前に注意する・・・見事に管理社会のでき上がりである。一握りの遺族の私的復讐心への配慮のために、我々は事実上自由を捨てることになる。

ブルース・シュナイアー「セキュリティはなぜやぶられたのか」(日経BP)のP.412をパクると次のとおりになる。
絶対的なセキュリティをを与えてくれる聖杯があると考えるのは愚かと言わざるをえない。そんなことを考えると、進歩はとまり、自由は失われる。絶対的なセキュリティを求めると他のすべてを犠牲にしなくてはならず、ろくでもないトレードオフをがまんすることになる。人生にリスクはつきものであり、ときおりの事故は自由の代償なのだ。(注:太字部分を書き換えた)

たとえ私自身が不慮の事故で悲惨な死を遂げることになったとしても、私は自由の世界に生きていたい。

2008年7月9日水曜日

食育とは何か?

最近役所の広報誌には「食育」という言葉が良く出てくる。子どものうちから、正しい食生活を身につけさせようという、例によって役所主導の理解不能な運動である。はっきり言って迷惑である。このような馬鹿げたことに役所の人員と税金をつぎ込むのは無駄としか言いようがない。

私の通っていた公立小学校では給食に納豆がでた。私自身は特に納豆が嫌いというわけではなかったのだが、大阪から転校してきたある女の子は納豆がどうしても食べられなかった。困ったことに当時の担任は給食は残さずに食べさせるという教育方針であったため、納豆を食べることのできないその子は、昼休みの間ずっと席についたまま納豆をぼんやりと眺めていた。これは当時PTAでも問題になったと聞いたのだが、結局その女の子は給食の納豆が原因で市内の私立小学校へ転校してしまった。

だから、私の意見は、役所は食育みたいに馬鹿なことには金輪際手をだすな、ということである。他人の嗜好を無視してその土地の伝統食、あるいは日本の伝統食が批判の余地のない絶対善であるかのように主張する輩には心底虫酸が走る。何を食べるか何を食べないかは、その家その家で異なるものであり、また赤の他人が口をはさむ問題でもない。わざわざ役所が介入してきて、いったい「食育」と称して何を教育するつもりなのか?役所が低レベルの市民活動家が言うようなこと主張しているのを心から危惧する。

地獄への道は善意で舗装されている。大阪から来た女の子にとって担任の善意に基づく教育は、地獄への道であったと思う。

2008年7月8日火曜日

「自治体経営革命」

ブログでけなすための本は定価を支払うのがもったいないのでブックオフで買うようにしている。というわけで今日はブックオフで1,000円(高い!)で入手した「自治体経営革命」(メタモル出版)について書く。まず最初の感想として、読んでいてこれだけ疑問が沸き起こる本も珍しいと思う。疑問点は以下のとおり。

・「選挙で市町村長と議員に委任するとはいえ、基本は住民の決定です」?
違う。現代行政の基本は選挙で選ばれた市町村長と議員と役所の決定である。基本が住民の決定というのは古代ギリシャの話である。なぜ市町村長や議員が基本かというと、「フェデラリスト」第63篇をパクって言うと、首長と役所と議会を腐敗させるよりも、住民そのものを腐敗させる方がはるかにやさしいから、となる。

・「まちづくりの主人公は住民」?
そんなことになれば、地域の顔役や市民活動家のような声のでかい連中ばかりが得をすることになる。NPOの活動支援?彼らは人様の税金にたかっているだけだ。自分で資力のある者を説得して資金を集める、という努力は一切しないし、なおかつ困ったことに自分たちは世のため人のために活動しているのだから補助金をもらって当然の存在と思っている。馬鹿げた事態をさらに推進するつもりなのか?だいたい私は「まちづくり」「ものづくり」という言葉が大嫌いだ。人様の税金使って成功の見込みのない事業をやっています、という雰囲気がありありと出ている。

・「自治基本条例は自治体の憲法」?
自治体の長期総合計画の上位に自治基本条例が位置するというのはわかるが、他の条例の上位に位置するとはどういうことか?法令上そういう定めがあるのか?利害関係者から他の条例との関係で訴訟を起こされたときに、他の条例の上位に位置するという主張が通用するかどうか検討したことがあるのか?

・「地方自治の本旨に反するものは国法といえども違憲」?
よくわからない。具体的にはどういう事例があるのか?だいたい憲法92条はどう解釈していいかよくわからない条文で、地方自治の本旨が何を指すのか定説はない。

・「住民自治条例は行政側で条例案を用意するべきものではありません」?
では誰が作るのか?住民がつくるのか?サラリーマンをはじめ一般の市民は日常生活に忙しくて行政にかまっている余裕などないとは、著者自身が本書の冒頭に書いている。それとも、役所のあらさがしをするしか能のない一握りの現代版活動家に自治体の主導権を委ねよというのか?

・「IT時代の電子市役所」?
「役所での手続きが自宅のパソコンで24時間できる」については、本人確認が必要な場合は?手数料を支払う場合は?という疑問がある。理想としては良いが今の自治体にそれを実現できるノウハウも人材もない。ワンストップサービスとマルチアクセスサービスにいたっては何が電子市役所と関係があるのかさっぱりわからない。

・「納税組合をもっと国に働きかけろ」?
本書に記載の通り、すでに事務費部分以上の補助金については違法判決が出ている。何を時代遅れのことをいっているのであろうか。この本のタイトルは「自治体経営革命」のはず。納税組合などというムラ組織に頼って胡散臭い補助金を支出していないで、ビジネスライクに差し押さえすればいいだけの話である。

・(談合問題で)「業者を向くか住民を向くか問われる自治体の姿勢」?
業者=住民だから自治体は苦労している。「税金を払ってくれる住民の職場を役所がつぶしていいのか」ということでどこの自治体も頭を抱えているのだ。大見得きって問い詰めることのできる問題ではない。

・著者の意見の根本となる思想が見えてこない。現代リベラリズムなのか、リバタリアンなのか、それともcommy系列なのか?また、「行政の公権力の行使とは何か?」という基本中の基本についても何ら記載がないのはいったいどういうわけなのか?マスコミが新聞に書きたてた底の浅い問題しか書いていない。

・「道路は地域の生命線」?
繰り返して言うようだが、こういう主張をする本のどこが「自治体経営革命」なのだ?地方の道路整備のせいで日本の経済成長が低下すれば国民全体が迷惑する。それとも、どうせ衰退するならば都会もろとも・・・と考えているのであろうか。

・「中心市街地活性化はなぜ必要なのか」?
とタイトルに書きつつ、なぜ必要なのか答えを全く書いていない怪奇現象。(だんだん書くのがつらくなってきた)

と思いつくままに書いてみた。今までこのブログでは役所と公務員の悪口ばかり言ってきたが、上に記載した疑問点は数年間公務員として勤務した職員なら誰でも気づくような話ばかりである。なお、本書には『「インターネットに公開したのに反応がない」ということは消極的ながら賛成と同じことになります。公開された以上反論意見があれば述べるのは当然で・・・』と書いてあるので、当然ながら反論がなければ私の意見に賛成したと見なします。

2008年7月7日月曜日

アフリカの貧困

今日は洞爺湖サミットの日。G8首脳とアフリカ諸国首脳が会談したようなので、アフリカについて書く。ジョン・マクミラン「市場を創る」(NTT出版)には、次のようにある。

データの示すところによれば、通常、貧困は経済成長によって減少する。・・・持続的経済成長のために正しい分野に十分な量の投資がなされるようにするには、市場が必要である。・・・市場は自動的に成長をもたらすものではない。政府が経済から手を引き、ただ市場に物事を任せるだけでは十分ではないのである。・・・経済成長には市場が広範に存在していることだけでなく、市場がうまく設計されていることも必要である。・・・ある国は過酷なほど貧しいのに、ある国は安心して暮らせるほどに豊かであるという事実は、大部分それらの国々の制度の質によって説明することができる。・・・

つまり非常に簡単にまとめると、貧困の減少のためには経済成長、経済成長のためにはきちんと機能する市場、そして市場がきちんと機能するためには国家による経済的諸制度の確立が必要、となる。しかし、松本仁一「カラシニコフ」(朝日新聞社)には、アフリカの貧しい国々について、部族間の相違に配慮せず欧米諸国が国境線を引いたため、国としてのまとまりがない、という話がでてくる。そのような国々では「大統領」とは首都とその近辺を制圧した部族の長を指す。当然、同じ国内でも他部族の地域には無関心となる。したがって、経済成長のための全国的なインフラ整備ができない。

事情は個々の国々よって異なるため一概には言えないが、現代の先進国では決して容認できない独裁制も、貧困にあえぐアフリカ諸国では、初期の経済的諸制度の整備のため、強力な支配力を持った「善意の独裁者」が極めて有効になる。そして、ある国に「善意の独裁者」が出現するかどうかは運そのものであり、結局アフリカの問題は、なんとか解決しようと考えている限り、人智ではどうしようもないものなのである。

P.S. G8でのアフリカ諸国首脳は先進国の援助ばかり求めている。どこかの国の農業者や漁業者を連想してしまって非常に不愉快だ。先進国のなすべきことは、貿易障壁を取り払い、低開発国から農産物を輸入し、彼らに国際経済の枠組みの中で成長できる機会を与えてやることである。

2008年7月6日日曜日

教員採用汚職

大分県教育委員会で小学校の教員採用について汚職が発覚、逮捕者が出たとのニュースを見た。7月5日の記者会見で大分県教育長が「なぜ不正がおきたか、私自身が一番知りたい。二度と起きないための仕組みを作りたい」とコメントしているようだが、このようなチンケな汚職がおきるのは、私が先日このブログに記載したとおり(「自己完結する組織」)、現在の地方自治体が身内の職員同士の仲良しクラブに成り下がっているからである。

なお、せっかくの機会なので念のため助言しておくが、再発防止の仕組みをいくら作っても、運用する人間が今までどおりなあなあで事を進めれば何の役にも立たないであろう。それにしても、この程度の見識で教育長が務まることには大いに驚くが、こういうセコイ汚職ばかりやっている地方自治体が国に対して地方分権を求める身の程知らずぶりの方にも驚く。

P.S. 地方自治体の職員採用には胡散臭い、と思わざるを得ない部分が多い。規模の小さい某市の2次試験(面接試験)では、控え室で受験者どうしが自分のコネを自慢しあっている、という話を聞いたことがあるし、県と市を併願して、市の面接試験に行くと面接官から「県に合格しましたね。(なぜ市職員がそれを知っている?)」と言われて落とされる、という話も聞いたことがある。今もそうなのかは知らないが、少なくともたいていの職員は「詳しいことは分からないが職員採用にはどこか胡散臭いところがある」ということは知っていたのだから、もっと以前に採用方法についてはなんらかの工夫ができたはずである。

2008年7月5日土曜日

会津学鳳

会津若松市の富士通工場跡地にショッピングモールのような巨大な建物がある。最近できた県立中高一貫校会津学鳳高等学校中学校である。建設にいくらかかったのか?その費用を県ホームページ等ネットで調べてみたが良くわからない。これにはふたつ問題がある。

1 新設の公立校については、その建設費用を学校のホームページにきちんと記載すべきである。愛だの夢だの意味不明のビジョンを掲載していないで、我々市民の税金をどれだけ使ったのか、はっきりと誰にでもわかるように明示して欲しい。(何十億円もかけた結果が「愛」と「夢」では実に情けない、というか納税者をバカにしているのであろうか?)

2 1の当然の結果として、他人の税金を使ってあんな立派な学校をつくる必要があるのか?という疑問が生まれる。プレハブで勉強しろとは言わぬが、他人の税金を使う以上は、当然費用対効果に十分な配慮をすべきであって、「立派な校舎」というものを一般市民は全く必要としていない。公立学校の校舎はそこそこのレベルで当然である。財政上の規律はいったいどうなっているのか?

会津若松へ行ったときは、ショッピングモールのような巨大な学校をぜひ一度見てみよう。

佐高信氏

佐高信氏の講演会に行ってきた。8割方予想していたが、話の内容としては小泉・竹中は悪い奴、城山三郎は良い人という勧善懲悪時代劇流与太話の域を出ていなかった。肩書きに経済評論家とあるが、経済理論の話などまったくしていなかった。それでいいのであろうか?まあ肩書きはどうであれ、本職は実質ジャーナリストなのでそれでいいのであろう。それはそれとして、話す内容に徹底したWHYの追求がないのは日本の伝統的知識人の特徴ではないのか?まあ、いいや。

実は私が聞きたかったのは、誰が善人で誰が悪人かという話ではない。古い言葉に「鳥のまさに死なんとするや、その声や悲し」とある。鳥の言葉はわからないが、今死のうとしている鳥の鳴き声の悲しさは理解できる、という意味だが、同じように、我々が心から理解できるのは理路整然とした話でもなく、もちろん与太話でもなく、その人が内に蓄えた経験からにじみ出てくる魂の声である。だから、今日聞いた与太話的講演内容の半分も頭に残っていない(一応詳細なメモはとったので、それを見れば思い出す可能性もわずかにある)。

講演会ではご本人もおっしゃっていたが、講演の目的の半分は「週刊金曜日」の宣伝である。週刊金曜日は、報道内容に偏向のあるマスメディアが報道したがらない事実をちゃんと報道する、とさかんに宣伝しておられた。ちゃんと売り込みに来られるとは、素晴らしいことだと思う。それにこれだけ何がウリなのかはっきりしている雑誌も昨今稀である。だから、1冊500円などとセコイことを言っていないで、記事はタダでネットに公開すればよい。収入はネット広告と、読者からの寄付で賄えば週刊金曜日の報道内容は、もっと世間に広がるであろう。

ビル・ゲイツ

ひとつの政府は一万世帯の生活保護受給世帯に、生活扶助基準以上の生活を与えることはできない。しかし、ひとりのビル・ゲイツは一万人の労働者とその家族に、職と人並みの生活を与えることができる。いまや経済社会において、ひとつの政府の保有する実力は、たったひとりの偉大な起業家にも劣る時代なのである。従って政府の果たすべき役割とは、貧者に生活保護費を恵んで満足するのではなく、ロクに他人を雇うこともできない農業者や中小企業者の如き連中の既得権を守る規制を撤廃し、自由な競争の結果現れる利益至上主義の企業家がたとえ金の亡者であったとしても、誰からも後ろ指をさされない社会になるように、世の中の出来事に余計な口を挟まないことである。

「責任あるものは沈黙する」

誰の言葉だかは忘れたが、不作為もまたひとつの見識である。世の中の流れに合わせてキャンキャン騒ぐだけが能ではない。

2008年7月3日木曜日

自由をいかに守るか

渡部昇一著「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」(PHP新書)を読んでいる。内容的には、ハイエクはああ言った、こう言った、という文章ばかりが続き、私の学生時代の経済学部に大勢いた、マルクスはああ言った、こう言ったを繰り返してた先生方と大差ない。ただし、ハイエクの思想が今の平均的な日本人から見ると非常に斬新なせいか結構面白く読める。引用させてもらうと、この本の中には以下に示したのとおりの文章がある。

これは1940年代のイギリスのことをいっているのですが、「安全で給料の固定した仕事のほうが非利己的で清潔な職業だ」「リスクを負うような商業的な精神はいかがわしいもので、利益を得るのは不道徳だ」「100人を雇うのは搾取だが、100人に命令する立場は名誉だ」などと、小さいころから学校やメディアを通して教えられてきた青年たちが、安全で給料の固定した仕事に向かうのは無理のない話しだとハイエクはいいます。

私の感触では、役所で働く職員はほぼ十中八九上に引用した話に該当する。21世紀の公務員の意識は、1940年代のイギリス人と同じレベルなのである。

P.S. 私の持っているのは初版だが、p.206の”LORD ACTION”は、”LOAD ACTON”の間違いでは?

2008年7月2日水曜日

M-I-C-K-E-Y M-O-U-S-E

フルメタルジャケットという映画を見た。ベトナム戦争をテーマに80年代にアメリカで作られた映画だ。前半も中盤も後半も、これといってどうということもない普通の戦争映画だが、ラストシーンが印象的だった。暗闇の中、炎上する建物を背景に、およそ20人ほどのアメリカ兵が銃をかまえつつ、ミッキーマウスマーチを歌いながら行進していくシーンである。

というわけで、アメリカ兵が歌っているミッキーマウスマーチの歌詞が知りたくてインターネットで調べた。英語の歌詞は比較的簡単に見つかったのだが、確か劇中では、「・・・boys and girls・・・」と歌っていた。一方で私がネットで調べた歌詞には、そのような単語は含まれてはいない。これはどういう訳だ?ミッキーマウスの歌には歌詞が二種類あるのか?ということで、英語のサイトも覘いたのだが、語学が拙いせいでよくわからない。あらためて日本語のサイトを探していたら、2チャンネルの掲示板にちゃんと歌詞が掲載されていた。これを見つけたとき、実は少し涙ぐんでしまった。

幸福の定義は一元的には決めることができない。よく言われるように、それは人それぞれなのである。例え部屋に引きこもってネット漬けの毎日を送ろうとも、いかにもオタクといった格好でアキバに通いつめようとも、本人がそこに幸せを感じていれば、たとえ自分以外の全ての者が自分の感性を否定したとしても、それこそが絶対に譲ることのできない幸福の定義そのものなのである。そして、それぞれが好き勝手に(「他人に迷惑をかけない限りで」等の留保条件はあえてつけない。社会には法と慣習と道徳というものがあり、双方の利害が衝突する場合はそれらで解決すればいい。「他人に迷惑をかけない限りで」という条件をを付けると、そもそも、好き勝手に振舞うこと自体が道徳上許されざる行為となる。)自分の幸福を追求することが、実は他の人々の幸福にもつながるのである。ある人が好きで2チャンネルにスレを立てて、別の人が好きで書き込んだ結果が私の役に立った。赤の他人の好き勝手な行動が、全く予期しないことながら、別の人間の役に立つという社会の仕組みは、感動に値するほど素晴らしいものではないのか?

2008年7月1日火曜日

落書きで2点

私のパソコンはヤフーがデフォルトになっているので、インターネットに接続するとイヤでもヤフーのニュースが目に入る。ほとんど無視しているのだが、今日のニュースには面白いものがあった。イギリスの生徒が国語の試験問題の回答に「失せろ」(Fade awayか?)と書いたところ、27点満点の試験で2点もらったとのこと。責任者によれば、コミュニケーション能力とつづりの正確さを評価し、また句読点が付いていればさらに高い点数になっていた、とのこと。

大した不祥事でもないのにマスコミに騒がれると薄汚いハゲ頭を下げる見下げ果てた小汚いおっさんは、こういう気の利いた受け答えができないからマスコミからも市民からも叩かれるということにまだ気付いていない。遺跡に落書きした学生を停学にしてホッと胸をなでおろす教職員のいる大学に未来はないであろう。

自己完結する組織

私は今勤務している地方自治体以外で働いたことがないし、特に金に困ったこともないのでアルバイトもしたことがない。だから民間企業や商店や工場というのがどういう組織なのか感覚的にはわからない。しかし、今の地方自治体については次のように言うことができる。地方自治体は自己完結の組織である、と。建前上市民のために働くことになってはいるが、職員の目線の先にあるのはあるべき社会や現に生活している市民ではなく、上司と同僚を相手に如何に仕事をするか、ということである。社会の常識は役所の非常識と言われることがあるが、その非常識も自己保身のためには極めて有効である。うかつに最前線で「部外者の」市民を相手に大活躍しようものなら味方に後ろから撃たれる、というのが役所の世界なのである。

なぜなのか?というと、役所は身内のために働く自己完結の組織だから、というのが答えである。例えばイベントを計画してチケットがさばけないと(残念ながら、役所の企画したイベントでチケットを売り切ったという話は聞いたことがないが)管理職以上は購入を(マイルドに)強要される。購入依頼の文書にはたいてい「趣旨をご理解のうえ、ご購入願います」と書いてある。拒否する奴はKYという訳だ。計画をたてれば、あらゆる部局であらゆる計画が立てられ、そのために必要となる時間と労力は膨大であるが、効果的な計画など見たことも聞いたこともない。担当でなければ身内の職員ですら、読んでもよくわからない作文を作って終わりである。好奇心から不明な点について担当に説明を求めると、苛立ち混じりの良くわからない回答がなされる。形式上公表もされるが、市民からなにがしかの反応があることは全く期待されていない(というか誰もそんなものがあることを知らない)。これらはみな誰のための仕事でもなく、職員の、職員による、職員のための仕事なのであって、「部外者」とつながりのある奴、「部外者」相手に本気で仕事をしようとする奴の方が異端なのである。

組織の収入は税金で保証されている。あとは、身内の世界に引きこもり、身内同士で気分よく仕事ごっこができればいい、という組織に我々は決して安くはない税金を払っているのである。

コンビニの24時間営業自粛

ニュースで地方自治体がコンビニエンスストアの24時間営業を規制又は自粛の要請を検討している、という報道がなされている。私が読んでいる朝日新聞にはその理由として、温室効果ガスを減らすためというよりはむしろ浪費型ライフスタイルの変革を目指すと書いてある。規制を推進しようとしている東京都知事や神奈川県知事ら自治体の長は一体何様のつもりなのであろうか?他人の生活まであれこれ指図できるほど自分は偉いと思い込んでいるのか?もしそうであるならば、そのような人間に権力を握らせることほど危険なことはない。

個人の自由は経済的自由に基づく、と昔の偉い学者が言った事がある。コンビニの営業を規制し、タバコの販売を規制し、次は我々の生活の何を規制するつもりなのか?日本人は知らず知らずのうちに統制主義的思想に魂を売り渡し自由な社会を失っている。他の人はどうかは知らないが、私は個人生活のあらゆる面で行政の規制に従い、結果として得られるマゾヒスティックな奴隷の平和を賛美する趣味は全くない。

国際社会において地盤沈下する日本に苛立ち、その反動として自由な市場経済、自由な個人の生活をヒステリックに攻撃する者達が、結局は日本の地盤沈下をますます早めているのだ。

P.S. 同じ朝日新聞に、コンビニの深夜営業の規制について「全く考えていない」という山梨県知事のコメントが載っていた。同じ知事でも、中には常識円満な人もいる。