2008年6月29日日曜日

高校野球が嫌い

私の住んでいる県でも間もなく夏の甲子園の地方大会が始まるが、私は高校野球が大嫌いである。開会式で、腕と腿を高く上げて行進する高校生の姿を見ているとゾッとする。あれは昭和の昔、日本の年寄りどもが、負け戦と知りつつも、自分の国の若者を死地へ追いやった神宮の学徒出陣の光景そのものではないか。いつの時代も日本の年寄りは、若い連中が死んだり苦しんだりするのを意地悪く楽しむ。いっそのこと某平壌で某北朝鮮軍の軍事パレードに混ぜてもらえばどうか。違和感なく溶け込めるであろう。その他にも、上級生が下級生を殴ったとか、殴ったのは二年生だから三年生は出場停止にしないだとか、先日の朝日新聞の記事では、高校野球は日本の文化だと恥ずかしげもなく語っていたが、朝日が語る日本の文化とは、上に述べたような因循姑息な日本古来の伝統を指しているのであろう。

2008年6月28日土曜日

食品偽装

また食品偽装が発覚した。なぜこういうことが頻繁に起きるのか?理由は簡単。日本のブランド食品は、その実際の価値に比べて不当に高く評価されているからだ。日本のうなぎと中国のうなぎ、味にほとんど違いはないのに値段は数倍違う。そこを目ざとい商売人につけこまれているのだ。偽装問題は、日本のブランド牛肉やブランドうなぎの価格が高すぎるという市場からのメッセージである。

〇〇牛だの〇〇うなぎだのは日本人の日々の生活に必要な食料ではなく奢侈品である。そんなもんなくても誰もこまらない。国産のくだらない食品について大騒ぎするよりも、日本人の血肉になるホンモノの食料品が安価に安定的に供給されるにはどうすればよいか、ということにもっと大騒ぎするべきである。

P.S. アメリカ人の食生活はハンバーガーみたいなものばかり食べいて健康に悪い、一方で日本人の伝統的食生活は栄養バランスに優れている、という話題が相も変わらず声高に語られている。栄養学的にはそうかもしれないが、高カロリー食品を安価に大量に供給できる文明は、米と魚しかまともに供給できない文明より素晴らしいのではないか?スーパーに貧弱な食品が割高な値段で並んでいる。そしてそのことを誰も批判も批評もせずに、逆に日本的食生活は素晴らしい、と自慰的言い訳をしている。この社会はこれから衰退するんだろうな・・・

2008年6月27日金曜日

タバコが千円?

タバコが一箱千円になるかもしれない、というニュースを見た。こういうことを主張する人々は一体誰の利益を考えているのであろうか?人々の健康のため、社会全体の利益のため、という答えであるならば、私からの回答は次のとおりである。

余計なお世話だ。

社会とは、他人の純粋な善意で成り立っているのではなく、多くの人々の無数の個人的利益の追求のバランスの上に成り立っているのである。純粋の善意は、それがどんなに批判の余地のないものであっても人々に利益よりも害悪を与える。そういう連中を信じるくらいなら、既得権を守るため賄賂をばら撒く因循姑息な利権団体の方がまだ信用できる。

彼らはほんの少しでも考えたことがあるのであろうか?生活保護を受けている喫煙者にとって、タバコ一箱が千円になれば数少ない楽しみが奪われることを。精神科に入院している喫煙者にとって、喫煙できなくなれば病状が悪化する場合があることを。

タバコ一箱千円は日々の暮らしに何の不平不満もない金持ちの理屈である。彼らの視点から貧者弱者が抜け落ちていることは明らかであり、きっとそういう主張をする連中は、この世には生活保護制度や精神科病棟というものがあることを知らないのであろう。

人々よりも裕福な生活を送り、人々よりも大きな社会的影響力を持つ者は、自分自身の利益のみ追求していればよろしい。暇を持て余して善意を語るなかれ。

2008年6月26日木曜日

パチンコ税

地方都市は、どこへ行ってもパチンコ屋ばかりである。テレビコマーシャルでも朝から晩までパチンコの宣伝をやっている。「7のつく日は○○の日」とかいうコマーシャルを聞くと、最近では心底うんざりする。パチンコをやる人々は街中に雨後のタケノコの如く林立する巨大な店舗を見て、あれは我々の大半があそこで大損しているためだ、ということに気がつかないものなのであろうか?不思議である。

一方で、最近の地方自治体は地域経済の活性化のため涙ぐましい努力をしているが、そのほとんどが失敗しているといって差し支えない。相も変わらぬお祭りイベントと、民間レベルでせせこましく活動する団体への助成金で、地域経済が活性化するというおめでたい発想はいい加減やめるべきだ。日本の場合、地域経済なんか公共事業と農業補助金が削減されれば衰退するのは当然のことで、こういう社会全体のあたり前の流れに反して、行政が税金と人員を投入して地域経済の活性化を図るのは骨折り損以外のなにものでもない。私の支払った税金がそんな無駄なことに使われるのは真平御免である。

思うに、今の地方自治体として為すべきことは、金の流れを呼び込むことではなく、今現在の金の流れをある程度コントロールすることである。幸い(?)にして田舎にはパチンコ屋という、街一番の金持ちがいる。パチンコ屋に課税して財政の足腰を強化し、衰退する地方に暮らしている人々が少しでも暮らしやすくなるよう、教育と福祉という「まっとうな行政の仕事」にもっと資金を投入すべきではあるまいか。

三国志

部屋の隅に積んである本の詰まったダンボールを漁っていたら、中学時代に読んだ吉川栄治「三国志」が出てきた。三国志など高校生以上になったら持っているのも恥ずかしい本だが、ふとその魅力は何であろうかと考えてしまった。よく言われるように、それは数多くの個性豊かな登場人物なのであろう。子どものころは、テスト前なのに徹夜で読んだものだ。カリスマ性のある君主、勇猛果敢な将軍、神算鬼謀の軍師・・・

そこでふと考えてしまった。はて、軍師とは頭が良ければいいのであろうか?私も子どもの頃は単純にそうであると信じていたが、それ相応に社会での経験を積むと、そんな何でもかんでも先を見通して計画をたてる人間などいるわけがない、ということにイヤでも気づく。では三国志で軍師と呼ばれた人々は何なのであろうか?

諸葛孔明は三顧の礼をもって迎えられるまで、晴耕雨読の生活を送っていた。今から千数百年も前に悠々自適の生活を(しかもまだ二十代であった)送れるのは、どういった類の者であったのか?しかも孔明の一族は、魏呉蜀それぞれの国で重用され栄達している。連中はそろいもそろってそんなに優秀だったのか?

私は古代中国史についてはズブの素人だが、あえて推測すれば、たぶん軍師とは地主であったのであろう。だから晴耕雨読などという呑気なことができた。そして地主は多数の小作人を抱えており、小作人は戦時には兵隊となる。より多くの軍師を味方にできた君主は、より大きな戦力を保有できた・・・

大人になると三国志もずいぶんと味気ないものになる。

2008年6月24日火曜日

未来新聞

New New New York タイムズ 2208年6月24日

鎖国政策を続けている東洋の島国日本に、私は100年ぶりに上陸する外国人となった。1億人の人口を狭い耕地で養うため、この国では国民のほとんどが農業に従事しており、母国アメリカの基準では人が居住しないような急峻な山中にも、数多くの集落と田畑が存在している。人々は肌の色が妙に白い私に対しても親切で朗らかではあるが、生活は貧しく、彼らの先祖が500年前にそうしていたのとほぼ同じ生活水準で暮らしている。彼らは非常に利発で好奇心が強く、私に対して世界の国々のことをあれこれと質問したが、それは決まって周囲に他の日本人がいないときに限られた。彼らの社会では独自の意見や好奇心を持つことは不道徳と考えられており、人前であれこれしつこく質問したり演説したりすると、村の暴力嗜好のある若者たちに誘拐され、額に「KY」という刺青を入れられるそうだ。なお「KY」が何を意味するかは今となっては全く不明である。

200年前、世界的には「先祖がえり運動」と呼称されるこの国独特の運動で、それまで世界最先端を突き進んでいた日本の経済と科学技術は一気にアフリカ最貧国レベルにまで急落した。食糧難を煽る政府とマスコミにより多くの都市住民が田舎の農地を買い求め移住したためだ。私が取材した政府高官タロー・スズキ氏は「先祖がえり運動」についてどう思うかという私の質問にこう答えてくれた。
「国民が都市生活を放棄したため日本の二酸化炭素排出量は90%削減された。わが国は地球温暖化防止のために最も貢献した国のひとつである。それに人々は質素な食生活のため体が丈夫になり、平均寿命も以前までと大して変わりはない。そしてなによりも、年長者を敬い、友人知人には誠意をもって接し、国家には忠実である、という日本古来の美徳が復活したことは大変素晴らしいことだ」
地球温暖化という言葉は歴史学のクラス以外では初めて聞いた言葉であるが、日本人の官僚は非常に面子を重んじるということを事前にレクチャーされていたので、賢明にも敢えて指摘はしなかった。

日本の法律は非常に複雑緻密でまさに法律の芸術である。国民は朝昼晩の食事の内容も、夫婦の夜の営みの回数も政府の規制を受ける。そして人々は互いの私生活を微細な点まで監視しあっており、政府は警察官をほとんど雇うことなく、きわめて低いコストで国民に法律を守らせることができる。比喩的に表現するなら「スパイの生活と奴隷の平和」というところであろうか。このことについて、当事者である国民はどう思っているのであろうか?東京近郊で農業を営むジロー・サトー氏に自由についてのコメントを求めた。
「自由?おめぇ、法律にやっていいって書いてねぇ事をやるのは犯罪だべさ」
この国が国際社会に復帰するのはまだ先のようである。

ジョン・ドゥ reporting from トーキョー.

2008年6月23日月曜日

不調

本日は絶不調。1、2か月に1日の割合で必ずこういう日がある。頭がぼんやりしていて考えがまとまらない。この40分で原稿を3つ書いたが、すべて没にしたので、今日は文章投稿するのをやめる。

蛍を見た!

一昨日の夜の11時頃、家の近くで蛍を見た。小雨の中、歩いてコンビニに向かう途中だったのだが、何やら蛍光黄緑の光の粒ふらふらと漂っていた。魑魅魍魎の類かと思い、ゾっとしたが、道路に落ちたそいつに近づき、よく見てみると尾の光る小さい虫であった。とはいっても、私の住んでいる地区は近くに小さい山はあるが、自然とは余り縁のない住宅地だ。もともと田んぼであったために、道路沿いに水路が縦横に流れており、水量も多いがゴミも多い。しかし、いずれにせよ蛍をこの場所で見るとは思わなかった。自然は人知を超えているのだ。

2008年6月22日日曜日

肉食の思想

鯖田豊之著「肉食の思想」(中公新書)という本に、断絶理論という話が出てくる。かいつまんで言うと、白人は人間と動物、貴族と平民、キリスト教徒と非キリスト教徒をきっちりと区別するという話だ。ひさしぶりに読み返して、ふと最近の環境保護運動を連想した。

人間と自然を二分する環境保護運動の基本コンセプトは、まさに断絶理論そのものではないのであろうか?しかし、それは白人社会の文化が生み出した欧米オンリーの田舎臭い思い込みであって、世界普遍の共通の原理として、極東の島国が輸入する思想ではないと思う。運送会社の倉庫から鯨肉を盗み出して屁理屈をたれる一握りのファンダメンタリストは別として、こういうものの考え方には、誰しもが言うに言われぬいかがわしさを感じているはずだ。

自然の存在である人間が、自然のものを利用して作ったものは、すべて自然のものである。マグロの胃袋から出てくるビニール袋も、希少動物の絶滅も、何の不思議も驚きもない天然自然の現象である。もし、環境保護論者が自然をどうしようもなく愛しているというのであれば、南海の海底の珊瑚も、ドブ川の底のヘドロも、ひとしく愛していただきたい。

「肉食の思想」では、西洋では、断絶理論の強烈な峻別に対抗する形で、自由や平等といった近代思想が生まれたと話が続いていく。同じように、これからの先進国社会に必要なのは、「地球にやさしい」というたわ言に対抗する新たな思想ではないのか。

P.S. 「肉食の思想」は、私が高校生のとき親父の本棚からかっぱらった本である(もちろん、今では私のもの)。奥付を見ると昭和41年初版、昭和58年第36刷、定価380円となっている。新書が1冊380円とは時代を感じる。

2008年6月21日土曜日

東京までの距離

昨年か一昨年のことだが、妻と娘が東京へ旅行した。まだ幼い娘は、品川駅で大声で泣きはじめ、妻は駅のホームで途方にくれていた。妻の話によると、このとき上品な感じの老人が近づいてきて娘をあやしてくれたそうだ。泣き止んだ娘を受け取って妻が丁寧に礼を言うと、老人は「それじゃ!」とさわやかに去って行った。直後に、スポーツには全く疎い妻に、近くにいたオジサンが教えてくれた。「あれ誰だか知っている?ヤクルトの関根監督だよ」

こんな話は、東京では珍しくもないのであろう。しかし、有名人や芸能人が、すぐ近くに住んでいるということが、東京と田舎の大きな違いなのであって、東京ではテレビでみる世界が現実の世界として実感できる。それは住んでいる者一人ひとりの意識と行動に有形無形の影響を与えるのではないか。

大学受験で東京のホテルに宿泊したとき、テレビでニュースを見て衝撃を受けた。田舎の実家で見ているときには、全国のニュースや世界のニュースなど遠い別世界の話のような感じがしたが、自分の泊まっているホテルからさほど遠くない場所で、このニュースが放送されていると思うと、ただのニュース番組が妙に鮮やかに、そして、何かはっきりと意味を持ったものに見えた。私の人生で、テレビを見ていて衝撃を受けたのは、あの時だけである。

どんなに技術が進歩しても、そして、田舎でも東京と同じ暮らしができるようになったとしても、人々の意識上の距離は埋まらない。我々田舎に住む者たちは、物質的な生活は都会並であったとしても、社会に対する関心や、それに基づいた行動ができるかどうかの点で、東京からは遠く離れた生活を送っているのである。

2008年6月20日金曜日

才能は自由を求める

ション・マクミラン著「市場を創る」(NTT出版)という本に、「情報は自由(タダ)になりたがっている。情報は同時に高価になることも欲している」というコンピュータ業界の箴言が紹介されている。あえてパクらせてもらうと次のようになる。

「才能は自由(タダ)になることを求める。才能は同時に多くの人々に利用されることを欲している」

たぶん知的財産権が実質的に守るのはクリエーター個人の利益ではなく、クリエーターと市場経済の間を取り持つ業者の利益なのであろう。そして、当然ながら、業者が正当な競争の結果得た利益は保護されるに値するものである。それはそれでいい。問題なのは、作家や芸術家の知的財産権を守らないと彼らのインセンティブが保てない、というたわ言である。製薬会社が莫大な研究開発費をかけて得た成果を、同業他社がただで真似することができたら、どの製薬会社も、みすみす損をするとわかっている研究開発を行おうとはしないであろう。同じように、ある作家が書いた小説の海賊版が出回れば、その作家は執筆をやめる・・・はずがない!

才能は自由(タダ)になりたがっている。才能は同時に多くの人々に利用されるたがっている。本当に才能を持つ者は、体内から沸き起こるある種の押さえきれない表現への欲求をもっている。そして、自らの才能が多くの人々の目に留まり、利用され、あるいは役に立つことを心から望んでいる。金銭的見返りなどクソ食らえ、とは言わぬが、そこそこ豊かに暮らしていければそれで十分、と感じているはずである(才能の枯渇した者や、もともと持たない者はそうは感じないようだが・・・)。

同じ創造へのインセンティブでも、営利目的の会社と自然人では全く異なる。法によって守られるべきは、会社が行う創造への投資に対する正当な見返りであって、個人が持つ才能に対する見返りではない。

2008年6月19日木曜日

マイルドなカツアゲ

私の叔父は創業100年を越える老舗を経営していたが、10年前、家業の経営に行き詰って自殺した。後を継いだ従兄は何とかやり繰りしていたが、ついに昨年、店を放り出して夜逃げした。子どものころ、我が家のように出入りしていた店はもうない。しかし、商売をやっている以上、そういうことが起きるのは仕方のないことだと思う。

今日のネットのニュースに、イカ釣り漁船が原油高騰で出漁できない、という記事が載っていた。油の値段が上がれば、出漁できないのは当然である。当然でないのは、漁師が己の当たり前の権利を語るかのように国の支援を求めていたことだ。そういえば、テレビのドキュメンタリーとかで、農業者が国と国民の支援を求める姿もよく見受けられる。

君らはいったい何者なのだ?

私は、君らに百姓をやれと命令したことも、頼んだこともない。他の大多数の日本人もまたそうだ。日本では職業選択の自由は保障されており、君らは好きで百姓をやり、好きで漁師をやっている。なのになぜ、私が払った税金が、君らの生活を保護するために費やされねばならないのだ?中小企業の経営者は、たとえどんな不可抗力が働いたとしても、国の支援などあろうはずがなく、経営に失敗すれば、死ぬか夜逃げするんだよ。

社会に自由と競争と格差のあることが大嫌いな君らは、税金にたかりながら、好きな農業をぬるま湯状態で続けたいのかもしれないが、そういう君らを養っているのは、自殺や夜逃げのリスクを背負っている経営者や、下げたくもない頭を毎日下げているサラリーマンだ。

農産物が完全に自由化され、善良な市民から金を巻き上げている輩が社会から一掃されることを心から願う。

2008年6月17日火曜日

降伏のコスト

1945年8月15日、日本が無条件降伏する確率は100%であった。1日前の8月14日でもやはり100%であろう。さらに一日前の8月13日ではどうであろうか?そうやって、1日ずつ遡って考えていくと、日本が無条件降伏する確率が、100%より小さくなるのはいつであろうか?

いろいろ異論もあると思うが、概ね開戦から半年後のミッドウェー海戦、あるいは、その後のガダルカナル島の戦いの頃であろう。大勢としては、開戦当初から主導権を握って戦いを進めてきた日本軍は、この二つの戦いに敗れた後、アメリカ軍に主導権を握られ、東京まで一気に押し切られたのだから、ここらあたりがターニング・ポイントのはずである。だが、ミッドウェー・ガダルカナルで「勝負あった」のならば、その戦い以降に死んだ数百万の兵士や市民は、犬死であったのだろうか?

彼らの死は、日本が「無条件降伏」というコンセンサスを得るために必要なコストであった。そして、結果の側からみれば、総力戦を戦い抜くための戦争継続の努力は、降伏に必要なコストを吊り上げる。政府による情報管理、徴兵や勤労動員、産業界の再編、資源配分の統制は、結局は決して避けることのできない無条件降伏という結論に至るまでに、数年間という決して短くはない時間を稼ぎ、また、多くの同胞を死に追いやるための、ひとつに統合された精密な機構として機能したに過ぎない。

何の本で読んだか忘れたし、正確には覚えていないが、あるアメリカ人が日本人を次のように言っていた。「品よく負ける術を知らない、あわれな国民だと思うよ」

2008年6月16日月曜日

いい加減にして欲しい

今月から、車の後部座席でもシートベルトが必要になった。タバコを買うにもカードが必要だ。そういえば、自転車で歩道を走るのも禁止になった。規制ではないが、やれ「メタボ」だの「食育」だの、人様の食事の内容にまで、こまごまと口をはさむ奴がいる。この手の連中は、目に付いたもの全てを規制したり、指導したりすれば、世の中が良くなると本気で信じているのであろうか?


現代は、役所が社会の全ての情報を把握し、社会全体の利益を考慮して適切な規制を行う、という時代ではない。そもそも、そんなことができる役所が過去に存在したことはないし、これからも存在するはずがない。大事なのは、少数の例外的事例のために、その他大勢の者の行動を規制するのではなく、たとえそれが悲惨な事件事故であったとしても、あくまでも例外的事例に過ぎない、と冷静に認識することである。

自由は、ただで所持し続けることはできない。維持するにはコストが必要だ。役人が己の虚栄心のために、良識を捨ててあらゆる物事を規制しようとするならば、まさにその時が、必要な代価を支払う時ではないのか?市民がきちんと声をあげる時ではないのか?

タバコを吸う不良のために、自動販売機でタバコを売っていた商店の売り上げが落ちる、ということがあってはならない。何の病気にもかかっていないのに、腹回りを測っただけで病人扱いする、ということがあってはならない。そして、何よりも私は、陰湿で息苦しい社会が大嫌いなのだ。

2008年6月15日日曜日

給料が下がった!

財政難のため、4月から給料がカットされた。財政人事の担当課から、今後の見通しや原因について、とくに詳しい説明があったわけではない。職員一同、来るべきものが来た、という感じで淡々と受け止めている一方で、誰もはっきりと口には出さない疑問を抱えている。一体全体なぜこんなことになったのか?誰のせいでこんなことになったのか?

交付税の削減というのは理由にならない。数年前、国の財政状況をほんの少しでも考慮できる頭脳を持っていれば、交付税は減ることはあっても決して増えない、ということは十分に予見可能であったはずだ。近い将来、崖から転がり落ちることになるとうすうす知りつつも、目をそむけ、口をつぐんでいた者たちの責任は重い。

今回の給料カットは止むを得ない。しかし少なくとも、いつ、誰が、どこでしくじったのかをはっきりさせる必要はある。安易に職員の給料をカットして苦境を乗り切って、最後には、理由も責任もはっきりさせず有耶無耶に決着をつけると、将来再び同じ失敗を繰り返すことになる。

2008年6月10日火曜日

ついにブログに

日々の生活の中で、感じたこと、考えたことをブログに掲載したうえで、少しでも整理したい。なにしろ職場でも、自宅でも、パソコンの中でも、ごちゃごちゃと書きなぐったメモや、今となっては、どういう意図で作成したのかわからないファイルが散乱しているので・・・ 

「ブログである以上、他人に見られることもない訳じゃない」と考えると、この粗雑な癖も少しは改善されるはず。

というわけで、このブログは私の「公開メモ帳」です。ただし、あたりまえのことですが、職務上の守秘義務違反に該当する情報や他人の個人情報の暴露等、法規上あるいは社会通念上問題のある情報については、一切掲載するつもりはありません。