2008年7月30日水曜日

PR下手

清沢洌「暗黒日記」(ちくま学芸文庫)の昭和18年12月6日に、
日本が宣伝下手というのが日本人がアドミットする唯一の弱みである。他はすべて日本人が優れていると思っているのに。我等から見れば日本人ほど自家宣伝する国民は他にない。
という文章があった。我が県は、わが町は、我が地方は、PRが下手だから・・・という話は、実は公務員になってイヤになるほど聞いてきた。実際は、日本の田舎ほどPR好きなところは他にはないのに・・・
日本の地方に住む人々は、地方には優れたものがたくさんあるのにPR下手だから世間から評価されていない、という自己欺瞞を堂々と唱えている。無理な背伸びはしないで、身の丈にあった工夫を積み重ねていけばいいのに、と思うのだが、一般には、もともと優れているのだから、メディアに大きく取り上げられれば、すべてうまくいく、と考えるらしい。もともと大したものはないのだから・・・という冷静な意見は、ムラ的感情論によって封殺される。
村おこし、町おこしは、「ここには何も優れたものはない」という前提から始まらなければならないのえあろう。もし、その前提を論破できるに足る十分な資源があれば、その場合はそれを生かす道を考えていけばいいだけである。最初から、やれ蛍だ、やれ伝統芸能だ、特産の野菜だ、と議論する前から議論の範囲を狭めているから、ロクなアイディアがでないし、何をやってもうまくいかないのだ。

2008年7月27日日曜日

「公貧社会を読み解く」

2008年7月27日の朝日新聞に「公貧社会を読み解く」というタイトルで記事が載っていた。論旨を簡単にまとめるこうなる。

アフリカ諸国が経済発展できないのは、経済基盤を整備するという「公」の果たすべき役割が貧弱すぎるためである。日本でも、同じように公の貧弱さが、格差社会や老後・雇用の不安をもたらしている。

前半は全く正しい。しかし後半は、全くでたらめである。まず、格差を是正したいのなら、その方法は規制や課税ではなく、経済成長が必要不可欠だ。「上げ潮はすべてのボートを引き上げる」というわけだ。そしてそのためには、無意味な規制を取り払って、企業の新規参入を促し、競争を促進する必要がある。次に、老後に不安を抱くのは誰しも同じ事で、かといって、これ以上年金を増やすことはできない。それとも、老人に何不自由なく暮らせるほど十分な年金を与えよ、というのか?若い連中から、彼らが必死になって稼いだ金を毟り取って、日本を現在の苦境へ追い込んだ張本人どもに、遊んで寝て暮らすために十分な年金を与えよ、というのか?馬鹿げた発言はいい加減にして欲しい。最後に雇用である。派遣労働者や最低賃金を規制すれば、日本人労働者ではなく外国人労働者、あるいは日本国内ではなく海外への企業の移転となることは目に見えている。朝日新聞は先手を打って、今度は「名目上研修なのに、実質日本に働きにくる外国人労働者を守れキャンペーン」を張るようだが、今後おそらく外国人労働者が増えていくのは、日本のメディアが「派遣労働者を守れキャンペーン」を行った結果だということをどの程度認識しているのであろうか。っていうよりこの国メディアはどれだけ国民に有害無意味な影響を与えれば気が済むのであろうか?

我々の国は、アフリカに蠢いている国家の体を成していない国々とは異なる。すでに基本的な法体系は整備され、インフラも十分整っている。大きな経済成長も成し遂げた(過去の話だが)。したがって、行うべきは国の市場への過剰な介入の排除である。規制緩和と自由化は必ず大きな痛みを伴い、そしてたぶん10年や20年は続くであろう。しかし、最終的な成功を手にしたいのならば、(私は大嫌いなのだが、新聞が大好きな表現を使うと)「未来の子どもたちのために」敢えて今の我々がその痛みを引き受けるべきである。

先日朝日新聞の経済気象台というコーナーに、「市場経済は社会に貢献する必要がある」という旨の記載があった。市場経済は社会に貢献するのではなく、個々の効用に貢献するのである。社会に貢献する市場経済とは、藤原某のいう武士道経済学のことか?朝日の経済部記者のpolitical economyに対する認識とはこの程度のものか、と唖然とした。

地球温暖化

私は、欧米の科学者の書いた「やさしい科学解説書」みたいな本が好きなので、わりと読んでいる。面白いのは、本筋から離れて、結構地球温暖化についてコメントする学者が結構多いことだ。はっきりと「地球温暖化はウソッパチ」と書く者、「二酸化炭素濃度の上昇は、気温を上昇させるかもしれないし、下降させるかもしれない」と書く者、とイロイロである。しかし、残念ながら、物理学者や化学者の書いた「やさしい科学解説書」で、地球温暖化をはっきりと肯定する意見は見たことがない。

一般の人々の中には、地球温暖化がウソッパチであると感じている人々はそれなりにいるはずなのに、国も自治体も企業も、みな組織の見解としては、一様に「地球温暖化防止」である。大まかに集約した人々の意見はいくつかにわかれるのに、社会の主要な組織の意見は完全にひとつでしかない。「地球温暖化防止に反対するキャンペーン」を展開する自治体も企業も、おそらくは世界中に、ひとつも存在しない、というのはちょと考えてみれば、実に気味の悪いことだ。

これは、典型的な翼賛体制であり、典型的なダブルスタンダードである。100年後だか、200年後だか知らないが、地球温暖化理論が破綻したあと、「俺も薄々そう思っていたんだよな・・・」では遅い。どれだけたくさんの資源が無駄に使われると思っているのか。日本人は第2次大戦後にも同じようなことを言ってきた。今度は世界レベルでその愚考を繰り返すつもりなのか?

2008年7月23日水曜日

ソフトに弱い国

学生時代第2次大戦のマニアだったので、結構その手の本を読んだ。大まかに言うと、日本は軍事におけるソフト面が非常に弱かった(ハードも大したことなかったが、それでもソフトの遅れよりはましであった)という印象だ。翻って現在の行政を考えてみると、道路づくりは得意だが、それをどのように生かすとか、あるいはどういうコンセプトで作るとか、そういう部分はからっきし駄目である。我々日本人の宿命なのか、それとも進歩の途中なのか、いずれにせよ、ソフトの弱い国は将来沈没していくしかないであろう。

2008年7月22日火曜日

「社会的共通資本」

宇沢弘文著「社会的共通資本」(岩波文庫)を読んだ。近所の本屋で売れ残っていたのを買ってきたのだが、内容がよくわからない。
生産、流通、消費の過程で制約的となるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本の二つに分類される。社会的共通資本は、私的資本とは異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する。・・・社会的共通資本は土地、大気、土壌、森林、河川、海洋などの自然環境だけではなく道路、上水道、公共的交通機関、電力、通信施設などの社会的インストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などのいわゆる制度資本をも含む。・・・社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなくてはならない。
感想1 資本とは、金融資本、物的資本、人的資本ぐらいかと思っていたけど、それ以外にも色々あるのね。あんまり聞かないけど・・・

感想2 行政も資本なんだ。ふぅん。

感想3 もし、社会的共通資本の管理を委ねる機構を政府とは別につくったとしても、政府の監視監督を受ける以上、実際には政府の一部門になりますよ。つまり、「社会的共通資本」が描く理想の社会とは、個人の自由よりも社会のインフラや、環境、農業への統制、保護を優先し、個人の自由はそれらを邪魔しない場合において認められる事実上の社会主義社会ということなのか・・・

もっと理論的な内容を期待していたのだが、ワリと感情論が前面に出てくる内容であった。人間が人間らしく、という理想はわからないでもないが、それはすべての人が、何不自由ない生活を送れるようになってから実現されるものであって、人類がそのようなことを言うのは1000年早い。

2008年7月21日月曜日

野菜を売るには?

妻の職場では、毎年地元のお祭りで「環境とお肌に優しい手作り石鹸」なるものを売っている。祭りで売るにはどうかと思うし、何やらいかがわしい感じがするが、今年は新入社員に地元の農家出身の若者がいるので、野菜を安く仕入れて、石鹸と一緒に売りつけようと算段しているようだ。ところがこの企画の責任者は結構用心深い性格で、妻の話によると「お前の旦那は公務員なんだから、野菜を売るのに許可が必要かどうか、ちょっと聞いて来い」と指示したとのこと。

というわけで、お答えします。ズバリ専門外なのでわかりません。ただ、別に加工したり調理したりするのではないのだから、許可は必要ないはず・・・と、せっかくのご質問なのに、そっけない答えではさびしいので、ネットで調べた。どうもやはり出店程度のところで野菜を売るのに許可は必要ないようだ。

実は妻からこの話を聞いたとき、すこしだけゾッとした。一般の人々は、たかだか野菜を売るにも許可が必要なのかも、と本気で考えている。野菜を売るのにいちいち役所の許可が必要とは、いったいどういう社会なのであろうか?マスコミが煽り、役所がくだらないことで社会を規制するから、人々の持って生まれた当たり前の常識感覚が失われている。

一番危険なのは、何でもかんでも規制する政府ではなく、それを当たり前のことと考える市民の意識である。我々の歩む道は全体主義へと続いていくのであろうか?

2008年7月20日日曜日

観光産業

国の観光立国推進にあわせて、あちこちの自治体での観光業の推進が図られている。なぜ観光かというと、経済波及効果が高いから、というのがその理由だが、いまどき経済波及効果などという怪しげな理屈を語っているのは観光を語る役所だけである。あちこちの自治体のHPを見ると、観光→波及効果が高い→域内自給率が高まる→地域が潤う、という論法のようだ。だが、私は公務員だし、私の近所に住んでいる人々も、工場で働くオジサンだったり、全国的な企業の地元支店で働くサラリーマンであったりして、観光が盛んになったからといって懐の潤うものは一人もいない。

いいかげんこういうくだらない仕事はやめて欲しいものである。昔、ある観光関係の会議で、某自治体職員が「観光客がたくさん来たからといって、誰の懐が潤うのですか?」と至極真っ当な質問をしたが、全員から黙殺された。観光客がたくさん来て儲かるのは、地元のボス的存在の方々だけで、地方都市の勤労者の大部分はサラリーマンなので関係があろうはずがない。役人とは人様の税金を使ってくだらない事をやりたい放題だな。連中の脳髄は正常なのであろうか?

そもそも、経済がどのように発展していくかなど、だれにも予測できないものである。昔鄧小平が、中国経済がこのような形で発展していくことを、共産党幹部の誰一人として予測していなかった、という意味の発言をしたが、まさにそのとおりである。仮に将来地域活性化で成功するとしても(その確率はほぼゼロだが)、現時点でどのように成功するかは誰にも予見できないのである。役所の青写真のとおり経済が動くと思うこと自体、勘違いも甚だしい。多くの職員は、こういう取り組みが失敗することはウスウス感じているが、誰も声をあげないし、そもそもそのような声を生かす仕組みがないのが、今の地方自治体の最大の欠点のひとつである。